■ph■nisis

すべて真実

金曜11:30より

 先の金曜日。1限のインド思想研究を終えたぼくは、同輩の黄檗と、それから実家が曹洞禅の鈴木ら5人とともに、森内先生へゼミのご相談を賜るためにZoomに集まった。

いつもの勉強会のメンツとほとんど変わらない。いつもどおりのZoomの集い。結集である。Zoom結集。

 企画者は黄檗。仏像好きの彼としてはなんとしても顔を売りたいものだ。ここが正念場、ここが分かれ目、とでも言ったところか。先立って周到にメールの文面を考えたり、悩んで質問事項を絞ったりしたのを知っていたので、気概はよく感じていた。うまくいくかどうか知らないけれど、実ればよいと願ったのは本当のことだ。

 

 黄檗は仏教、ことに仏像に関しては本当によく知っている。知りすぎていて此方がつまらなくなるぐらい知っている。もしぼくが仏像マニアか仏像研究を志していたら、半ば尊敬、半ば嫉妬みたいなものを抱いていただろう。もっとも、普段は不遜な態度さえとらなければ、彼を嫌いにはなるということはない。

 黄檗は前日までにどうにか質問事項を3つに絞り切った。傍から見ていても明快で、彼らしかった。ぼくとしても聞いてみたい話で、とくに、過去のゼミ生の研究例に興味が沸いた。(念のために付言しておくと、ぼくの卒論の研究テーマは南都の儀礼なので、ただただ純粋な好奇心である)

 

 また、小1時間も前になって、鈴木も鈴木なりに聞きたいことがあるらしいことが知れた。禅者(?)だけあり、どうやら止観とかそのあたりの質問だそうだ。

 1年生の参加者はふたり。小野と志水。卒論はまだまだ先の話だが、一応、どんなものか知っておきたいということで参加した。そういえば、かつて正覚講に先輩を招致して卒論の説明をおこなってもらったとき、このふたりは所用でいなかったのだ。

 

 定刻の20分前にもなって、鈴木をのぞく4人が集まった。黄檗はどこかそわそわしている。なんだかこっちも、座ってはいるが足の浮く思いに駆られる。

 しかし、先生が来ない。待てど暮らせどである。けどまあ、先生とは基本的に学生を待たす存在なのだから、そこまで気にはする必要はあるまい。ゼミの加藤先生だってぎりぎりだし、金曜1限の多賀島先生なんて、一回、授業前にぼくと雑談をして授業開始時刻を過ごしたぐらいなのだから。

黄檗に頼んで。こちらの準備はできています。ご都合のよろしい段階でお越しください、とのメールを御送りしたところ、10分も経たず入室された。なんでも、時間の読みを誤られていたとか。

 

 幸い、ここからは怒涛のお喋りだった。これは皮肉でもなんでもなく、先生は舌の尽きることがない。Googleドキュメントにメモする小野さんの指も僕の指も忙しい。10分ほど先生の独壇場で、つづいて学生との遣り取りがすこしずつ始まる。森内先生が仏像に目醒めたのがここ数年だったという話には些か驚いた。鈴木が止観について聞いた際、「(やるのが)苦手」と言われていたのに笑ってしまった。そのほか、日本仏教をあつかうゼミがこれまで僅少だったお話や、近年のゼミ事情などもお伺い出来て有益だった。

 また、森内ゼミでは、過去の卒論のテーマ例としては慶派の数が多いらしい。黄檗も慶派の造詣が浅くはないが、彼の関心は、およそ東寺と蓮華王院に向いている。蓮華王院といえば、かつて正覚講で仏教美術の調べものをした際に、彼は当寺が所蔵する二十八部衆を扱っていた。国宝の認定とともに仏尊の名前が大幅に改定された、あの事例についてだった。

 

 いろいろとお話はしたが最後、結局は吞みの話に落ち着いた。われわれは倫理的な存在なのだ。先生も乗り気でないわけがなく、是非、とのお返事をいただく。こうしてまた、先生方と学生とで呑む約束が結ばれた。