フロイトの言葉だ。
しかし、われわれ(みな)の言葉でもある。
恋人に本を贈った。バルトの『恋愛のディスクール』である。
夜に訪れる瞑想的な時間のなかで、彼女はこれを読んでいた。ぼくは、シュネーデルによるグールドを捲っていた。彼女は『ディスクール』を自在に横断していた。
「記号の不確かさ」に魅せられたらしい。だいぶ終わりの方にある、短い章。
記号は証拠にならない、とバルトは言っている。ひとは偽りの記号を簡単につくることができるから。愛していなくとも「愛している」と言えるし、そのまた逆も然りである――おそらく、そこに意識の有無は非在だ――。ゆえに、なんであれ逆説的にも言語に対して揺るぎのない信頼をわれわれは捧げなければなるまい。そのとき、愛する者からの言葉は解釈の対象ではなくなる。愛ゆえにこそ、真実として享受されるのだ。
しかし、バルトのこの考えに甘やかな気分だけ掬いとろうとするのは誤りである。それは、彼が本書のほかの場所で「はじめての告白が終わってしまえば、「愛しています Je t'aime」は、もはやなにを意味するものでもない。それはただ空虚と見えるほど謎めいたやり方で、かつてのメッセージ(おそらくこの数語では伝わらなかったもの)をくりかえしているにすぎない」(「愛してます」)と言っていたり、「愛のディスクールは相手を窒息させる」(「わたしは醜悪な人間だ」)と言っていたりする点から察せられる。
もっとも、「恋情のままに語るとは…(中略)…オルガスムスのない関係を実践することである」「マリヴォー流の文体」(いずれも「対話」)と評価することもあるが、やや悲観的な色合いが強い。まさに彼自身が言う、「恋する者はみな狂人」にぴったりの、不安定で曖昧な影をわれわれに見せている。
おそらく、多くの愛する者たちにとっては、本来的に言葉なぞガラクタにすぎないのだが、それでもなおみな仕様がなく、あるいは下手ゆえに言葉を用いざるを得ないということなのだろう。その意味で、彼が言うように、記号を無条件に真理とみなすには、告白が重大な価値を帯びてくるわけだ。
・・・・・・しかし、バルトが引用している先のフロイトの言葉を読むと、俺はまあ、なんと呑気なのだろうな、って呆れかえるばかりだな。ひどく難渋な文面のフロイトのプライヴェートな資料(これは彼の妹が勝手に公開したものだが)を見ると、フロイトがいかに愛に悩んでいたかわかるもんな。
そういえばジャック・アラン=ミレールが言っていた。精神分析の入り口に「女」との関係を示唆する文言をわざわざ掲げる必要などない、と。一度くぐれば、誰しも女に向かう、と。バルトがフロイト(とラカン)をゲーテやプルーストに劣らぬほど引くのは、まったく正しいわけだ。