aphanisis

すべて真実

美について

 

 ラカンセミネール第13講で「美は欲望を宙づりにする」と言ったらしいが、これほど美の特性を率直に言い得た者はほかにいないのではないか。換言すれば、彼は十分に詩人ではないのということなのだが。

 

タブローに関してラカンは「眼に対する眼差しの勝利ともいっている。だが、この勝利には画家の手練手管と思えるものがいささかかかわってくる。つまり、観賞者の防衛活動を眠らせること、 観賞者が初手から自らの眼差しを(武装解除するとい う意味で)解除するようにしむけることで、 しっかりとその観賞者を捕らえてしまうことがそれである。ラカンは次のように述べている。「まさにそこに、絵画の心和ませる効果、 アポロン的な効果があるのです」。あるいはさらに「心を鎮め、啓発し、魅惑するというタブローの果たす機能があるのです」とも述べている。大切なのは「眼差しをその欲望からいわばきれいに放免してやること 、その要求をまえもって眠らせておくこと、「邪眼」を祓いのけることス邪眼のうちにある羨望(invidia)(この語はラテン語の見る=望む(videre)からきている)を武装解除することである。眼差し を本当に追い払ってしまうのでなく、まずは眼差しを飼い慣らすことから始めねばならない。

 

ミシェル・デヴォー / 岡田温司ほか訳『不実なる鏡 絵画・ラカン・精神病』

 

 

ラカンの昇華の概念についていえば、美が欲望と切り結ぶ両義的な関係に触れておかねばならない。「美は欲望を宙吊りにし、弱め、いわば武装解除する効果をもっています。美の顕現は、欲望をものおじさせ、禁止するのです」。

 

ミシェル・デヴォー / 岡田温司ほか訳『不実なる鏡 絵画・ラカン・精神病』

 

 

 邪眼に侵された人びと―自分を含めて―の見ること / 言うことなど、あてにはなるまい。下のような言葉は、まあぼくの「美」とは異なるが、美を怖れている点で信頼できる。

 

 

美は耐えがたいものであり、また不寛容なものでもある。美は容赦なくわれわれの視線をさぐり、音を聞こうとする耳を誘惑し、待機中の言葉につかみかかり、電撃と緩慢さを交錯させる。美はみずから充足し、わたしたち抜きで存在するのだが、それでいて嫌になるほど執拗に呼びかけ、こちらにはわかるはずもない答えを要求する。

 

ミシェル・シュネーデル / 千葉文夫訳『グレン・グールド 孤独のアリア』

 

 

美しきものは恐ろしきものの発端にほかならず、ここまではまだわれわれにも堪えられる。われわれが美しきものを賞賛するのは、美がわれわれを、滅ぼしもせずに打ち棄ててかえりみぬ、その限りでのことなのだ。あらゆる天使は恐ろしい。

 

リルケ / 古井由吉訳『ドゥイノの悲歌』