■ph■nisis

すべて真実

自分が愚かで、ダメな人間になったような気がする

『ミニマ・モラリア』の一節。テオドール・アドルノの言葉。そして、世間を賑わせている(とボクは想像するのだが)、昨晩に新春特番として放映された件のドラマを流し観していた、ボクの感想である。

 

なぜだろうな。なんか大事なものが随所から抜け落ちてる気がするんだよ。少なくともアレを見て「凄い」「素晴らしい」とは思えなかったよ。ドラマのエモさでカヴァーされてるのが気になったのかしら。本当にそう言う理由ならば、それこそアドルノじゃあないけれど、ポップミュージックは政治的メッセージを語れないという主張に、些か似ているかもね。まあアドルノ自体、問題アリのオヤジらしいが。

 

たとえば、番組では夫婦別姓にしてもハラスメントにしても、しばしば〈時代錯誤〉という観点によって否定されるところが多かったのはどうなのだろう。「時代の風に合いませんよ」「いまはもう違うんだ」という諌め方・考え方は、まあ即効性があって一時的に効果が保障されうる戦法ではあるんだろうが、少なくともその論理では、ハラスメント=性暴力や家父長制は「以前からずっと間違っていた」「昔から不当な振る舞いだった」という価値性を損ねているわけで、性暴力など当該の諸問題が「時代の産物」であるとする主張に落としこめることになりはしまいか。「今はもうその価値観は古い」は、窮極的には恩赦でさえあって、被害者の倫理はどうなるのか。個人的にはそれこそセクシズムだろうという気がするのだが。

(念のために言うが、上は殆どドラマの外側に対する言及である。ただ、上のような論理が番組内で「多用」されていたところに(そしてTwitterやらでよく見かける言説であることも含めて)、まあちょっと書いたわけ。もっとも、ボクが今やってるような、こういう小煩い態度とまた、すでに「時代錯誤的」であることは明晰に知っているのだが)。

 

ニーチェの言葉を思い起こしている。それだけシニカルでウザイ人間に、いまボクはなっているんだな。

 

 

反時代的な様式で行動すること、すなわち時代に逆らって行動することによって、時代に働きかけること、それこそが来たるべきある時代を尊重することであると期待しつつ。

 

『反時代的考察』

 

世論と共に考えるような人は、自分で目隠しをし、自分で耳に栓をしているのである。

 

『反時代的考察』

 

 

しかし、この番組が尊ばれている世相に身をおく人間としては、いかに他の番組がひどいのか察するところではあるな。いうまでもなく、世を牛耳る立場にある政治家たちに大部分の問題はあるんだが。彼らなんか子供オヤジなんだから、さっさと辞めるか幽閉されるべきだと思うのよな。

この前の日文研フェミニズム研究者も言ってたけど、理論や議論はもちょい必要だと思っているところはある。「理解不能」な言説は等閑にし、共感やそれらしい意見だけでやってくのは限度が近いんじゃあないかと思う。誰だって当事者なんだからさ。

 

 

 

付記 「当事者」について

 

松本 日本で「当事者」という言葉が大きく注目を浴びるきっかけとなったのは、上野千鶴子と中西正司が岩波新書から共著で出した『当事者主権』という本です。この本によって、「当事者主権」という言葉が一気にメジャーになりました。ようするに、外部があれこれ言っていることよりも、当事者の言っていることの方が大事なのだ、という考えが登場した。当事者こそが一番大事でしょう、と。もちろん、これは大事な考えです。しかし現在、この「当事者主権」がややおかしな方向に向かっているように僕には見えるんです。

 

 上野と中西の本の中で「当事者」として想定されていたのは、たとえば女性や障害者でした。しかし最近、当事者の声として強く聞こえるようになったのは、いわゆる「非モテ男性」の人たちだったりします。弱者男性論の文脈で、当事者性が強く指摘され始めているんです。もちろん、男性が当事者性を主張すること自体はとても大事なことです。それ自体に問題があるわけではない。しかし、なぜか目立っているのは当事者性を盾にした女性叩きだったりする。たとえば「女性が下方婚をしないことが問題だ」とか「女性専用車両男性差別だ」といったようなことを彼らは言うわけです。これは明らかに戦う方向を間違っています。本来、男性が男性性で苦しんでいるのであれば、性別役割分業を批判するフェミニズムと連帯ができるはずですし、トロフィーワイフ的に女性を物として捉えていることが結果として自分たち自身を困難な状況に追い込んでいることを無視している。

 

思うに、「当事者」という概念は、上野と中西の『当事者主権』の後、どこかで捻じ曲げられてしまったのでしょう。実際、震災後に佐々木俊尚の『当事者の時代』という本が話題になりましたが、あの本で彼は「マイノリティ憑依」という言葉を使って、「当事者のことを他の人が代弁すべきではない」という点を強調した。それによって、「当事者にこそ主権がある」という箇所だけが「当事者」という概念の価値だと考えられるようになってしまったのではないかと思うのです。そこから、弱者男性論のような当事者の主張が強さをもつようになる土壌がつくりあげられてしまったのではないか。しかし、このような「当事者」概念は、当初考えられていた「当事者」概念の半分の側面しか見ていません。だから、僕は「当事者」という概念をリブートしなければならないと思っているんです。後で話しますが、これは「自閉」の話にも繋がってきます。

 

HZ たしかに、弱者男性論に限らず、SNSによって「当事者」の声が直接的に発信されるようになったことで、当事者がこうと言っているんだからこうなんだ的な、ある種の思考停止が起こっているような印象はあります。もちろん、一方で外部の人間が推測だけであれこれということは問題ではあるものの、これではどこか身も蓋もない感じがする。その上で「当事者」という概念をリブートするとは、一体どういうことなんでしょう。

 

松本 そもそも、上野千鶴子らが『当事者主権』で話していたことは、単に「当事者が主権を持っている」という話ではありません。また、「当事者という人が最初からいるのだから、その人たちに主権を渡そう」という話でもなかったんです。あの本において、もっとも大事なポイントは、「人は最初から当事者であるわけではなく、当事者になる」ということです。つまり、当事者になること、当事者への生成が大事だということなんです。

 

近頃言われているような「当事者の意見が大事」という時の当事者とは、実はまだ当事者ではない。そこにある要素が入ってこないと、人は当事者にはなれない。

 

では、そのある要素とは何か? それは、自分とよく似た人々からなるグループ(集団)なんです。たとえば女性の大学進学を例にとってみましょう。現在、大学の進学率は50パーセントくらいですよね。僕が勤めている京大の生徒でも、田舎出身で、特に女子であったりすると、地元では「東大京大とかそんなのやめときなさい、女の子なんだしそもそも短大にしなさい」みたいなことを言われてきた学生がいます。そのように言われて育つと、「そんなものかな」と思って、大学進学というものが自分にとって当事者性のないものになってしまいます。むしろ、田舎の慣習に従って生きていくことが当たり前になって、そのことに疑問をもたずに育ってしまう。

 

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