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すべて真実

「私は私の知らないことを知っている者を愛するのです」

過去を語ることは可能なのだろうか。

フロイトは当初、病の起源的経験を患者自身(ここでは分析主体という語を意図的に避けることとする)が気がつき、それを語ることによって心的な症状は除去されると考えていた。かつて共に臨床の場に立ったブロイアーの発見に基づいた知見である。

しかし、フロイトはある時期からこの見方に訂正を加えるようになる。患者によって語られる過去が偽りに満ちたものであることに気がついたからだ。言い方を換えれば、患者の口から語られるトラウマの話は、常に患者自身によって加工された物語であり、必ずしも事実にそぐわないような、ある種の幻想だったことに気がついたのだ。しばしば精神分析では、加工された幻想を〈hystoriole〉と呼ぶ。

柄谷行人が『探究  I』で評価する精神分析の功績は、まさにこの点にかかわる。すなわち、分析家はもちろんのこと、患者当人でさえ症状の起源(過去)を語れないことを明らかにしたのである。

 

では、分析家は患者の言葉をどのように受けとめるのか。大胆に言えば、分析家は患者の言葉を無条件に信用しない。なぜなら、先に述べたように彼らの語らいは虚構に満ちているからだ。つまり、患者が如何に切羽詰まって自身の外傷記憶を言い聞かせてきたとしても、信じないと言うことだ。

このような態度は非倫理的だと思われかねないだろう。しかし、この事実は分析家が患者の言うことをつねに吟味していることを示している。フロイトの発見によれば、患者が語る話は、まったく文字通り物語であるために、事実か虚構かを批判しなければならないのである。そしてこれは倫理的な活動であると言いあるだろう。そのために、他分野の精神医学の技法と比較してみることとしよう。

しばしば他の精神医学では、DSMといったマニュアルに依拠した診断や、患者の語らいを無条件に肯定し、そのうえで励ましや免罪を推奨するといった方法によって患者の症状やトラウマを浄化させようとするような医療が実践されている。だが、統計学的な数字によって患者を診断したり、患者の語らいに対する吟味を怠ったりするような態度は、端的に言って患者の個的な性格を無視している。ゆえに患者の倫理に背いているといってよい。精神分析の営みは、正にこれらとは全く真逆のものなのだ。

とくにDSMへの批判はラカン派が長年にわたって継続してきているものであり、比較的知られた話であろう。DSMや薬剤の発達の背景に、アメリカの製薬会社による経済活動があることも重要である。

 

ところで、患者に対する分析家の慎重さについては、〈転移〉という現象から説明する必要もあるだろう。転移とは分析経験を成立させ、分析の場の基盤として機能する現象である。ゆえに、分析家と患者の関係において極めて重要な要素であるといえる。

転移は患者が分析家へと向ける、信頼や期待にも似た現象である。あるいは、愛のようなものといってもいい。事実、転移性恋愛という語があるように、転移と愛は不可分な関係を結んでいる。さらに言うと、ラカンは愛とは転移のごとき発言もしている。

ラカンの学説によれば、分析家は患者から転移される主体、すなわち、〈知っていると想定された主体〉の地位を付与される。患者にとって分析家とは、自身の症状の原因を知りうる存在である(もちろん、知を想定されている主体である分析家は何も知らないのだが)。「わたしとはなにか」という問いがヒステリー者の欲望であるとしばしば指摘されるように、分析家は欲望の浄化を期待される何かなのである。

さて、ラカンはさるセミネールにおいて、「私は私の知らないことを知っている者を愛する」という言葉を残しているが、明らかにこれは転移を連想させる言葉であろう。まさに知っていると想定された主体の位置付けの背景に、「愛する」動作が存在しているわけである。

 

知っていると想定された主体。愛される主体。しかし、愛される主体はすぐさま屑の主体の身分に陥れられることもある。むしろ、転移経験においてはこの価値変更は通例だといっていい。それまで絶大な信頼や求愛的な素振りを示してきていたのに、あるとき、突如として「冷める」。その途端、急によそよそしくなったり疎んだりするようになる。臨床の場では、しばしば患者が治療に来なくなる理由のひとつとして数えることもできるだろう。転移する主体は、自らが知を想定した主体がなにも知らなかったとき、あるいは彼の知りたい知を転移された主体が持ちえていなかったとき、彼を屑として棄てることができるのだ。ラカンが〈対象a〉に芥の価値を含めたのには、このような理由がある。

ゆえに分析の場において、患者とは極めて狡猾な存在であるといえよう。もちろん、彼らはそのことを明瞭には知らないのだが、それでもなお、分析家が患者の言葉に厳密であろうとするのには意味がある。

 

 

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愛のすべてが転移である、などと即座に言うことはできまい。ラカンが愛をまるで類型化でもしているかのように語っているのを思い出すとよい。あるいは、ラカンのよく知られた愛の定義––––「愛とはあなたの持っていないものを与えることである」を思い返すのも良いだろう。そこには無償とでも呼ばれるべき、刹那的な尊厳があるからだ。応答なき愛は、おそらく転移や臨床の次元とは異なる領域、こういってよければ、信仰物への愛ともいえるものに違いあるまい。

 

 

付記 転移について

これまで、自由連想法による作業、漂う注意による聞き取り、解釈、精神分析家の欲望と精神分析の実践を構成している中心的要素について述べてきた。これ以外でまだ出てきていない重要な構成要素がひとつある。それは転移である。精神分析の実践は常に転移の下でのみ進められ、転移という現象を前提として初めて成立する。

転移はしばしば反復現象と混同される。転移とは、過去において患者にとって重要な人物、特に幼児期における両親に対する欲動・態度が分析の場で分析家に向けられて出てくる現象を指すと考える傾向がある。過去の出来事が反復されて出てくることが転移現象と考えると、転移の解釈がなされるようになる訳だが、それは常に分析家との関係の中で起こることが中心になる。そこでは患者と分析家との間に二者関係が成立し、分析家が患者に対して抱く逆転移の感情までが解釈のために利用されるようになる。そうなると分析家は患者の葛藤に巻き込まれてしまって、抜き差しならない関係に陥る危険が生じるだろう。

ラカンは転移と反復現象とをはっきりと分けて考える。転移は患者の自由連想作業の結果、無意識の知が想定され、その無意識の知に主体が想定されること(SSS,sujet supposé savoir)から生じるというのだ。その想定が分析家に向けられると、分析家は患者の無意識について知っている者とされ、知に対する愛情が芽生え転移性愛情となる。つまり、転移性恋愛はSSSの生み出す効果なのだ。他方、反復は外傷体験、つまり現実界と繋がっているものと考えられる。

患者が最初分析家のキャビネットを訪れるのは、そこに自分の問題を解決してくれる何かがあるという想定、期待があるからで、そこには分析家に対する治療以前の転移がすでに成立しているはずである。それがなければ分析家を訪れることはないだろう。したがってあらかじめ転移が成立していない場合、たとえば周りの人から無理矢理送られてきたような場合には分析は困難である。ただし子供の場合はこうしたあらかじめの転移は通常成立しておらず、親が送ってくるのであるから別であるが、親には転移が成立しているので間接的転移がなされていると言える。しかしこうした転移は予備的な転移であって、分析の場で作用する転移とは区別される。分析の中での本来の転移は、自由連想で語る中に患者自身も気がついていない無意識の知があることが想定されるようになってはじめて成立する。そしてその結果、転移による無意識の作用が始まる。

 

向井雅明「精神分析における臨床について」