aphanisis

すべて真実

eromenos

eromenos(愛される者)が、その手を延ばして「愛を返す」ことにより、erastes(愛する者)へと変わる崇高な瞬間がここにある。この瞬間は、愛の「奇跡」、「〈現実界〉からの答え」を表している。このことから、主体自身は「〈現実界からの答え〉」の状態にあるとラカンが主張しているときにその念頭にあるものが把握できるだろう。つまり、この逆転が起きるまで、愛される者は対象としての身分をもっている。つまり、愛される者は、自分では気がつかない「自分の中の自分以上のもの」である何かのために愛されている。「他者に対する対象としての自分は何者なのか。他者がわたしに何を見てわたしを愛するようになるのか」といった問いに答えることはできない。

そこである非対称が立ちはだかる。主体と対象という非対称だけではなく、愛する者が愛される者の中に見るものと、愛される者が知っている自分自身の姿とが一致しないという、より根源的な意味における非対称である。

ここで、愛される者の位置を定めている逃れがたい行きづまりに気づく。他者がわたしの中に何かを見てそれを欲しているが、わたしはわたしがもっていないものを与えることができないというものだ。または、ラカンの言葉を借りれば、愛される者がもつものと愛する者が欠いているものとの間には何の関係も存在しないとも言える。愛される者がこの行きづまりを抜け出す方法は一つしかない。

愛される者が愛する者に向かって手をさしのべて、「愛を返す」のだ。

つまり、象徴的な身振りでもって、愛される者の地位と愛する者の地位を交換する。この逆転が主体化の時点を指し示す。愛の対象は、愛の呼びかけに応えた瞬間、主体に変容する。こうした逆転が起こって初めて、真の愛が出現する。ただ単に他者の中のアガルマに魅了されているだけでは、真に愛しているとは言えない。愛の対象である他者が、実はもろくて失われたものであること、つまり「それ」をもっていない者であることを体験しても、愛がその喪失を乗り越えた時にこそ、真に愛していると言える。

この逆転の時を見逃さないように、とくに注意しなければならない。愛する者と愛される者という二元性という最初の構図はなくなり、今や二つの愛する主体となったが、非対称はやはり存在する。なぜなら、対象自身が、主体化によって、いわば自身の欠如を表明しているからだ。

 

スラヴォイ・ジジェク / 松浦俊輔ほか訳『快楽の転移』 

 

 

 

〝わたし〟が思っている自己像、他者が思っている(〝わたし〟の)自己像。その差異がしばしば愛の創始の根源にあるということ。もっとも、「彼、あたしが思っているようなヒトじゃあなかったわ!」などという事態の原因でもある。

ラカンの愛の定義「わたしの持っていないものを与える」とは、〝わたし〟を愛する者が欲望するものを与えるということ、換言すれば、愛する者の欲望する存在になるということだ(ジジェクの上の変奏に従えば、「愛される者」の「愛する者」への変容。崇高な瞬間)。

 

だが、ジジェクの上の文章にはないけど、誰しも掴みえない次元としての他者があるはずだ。わたしも他者も掴みえない〝わたし〟。

たぶんこのあたりにこそラカンの<もの>とか<現実界>に関与する部分だと思うんだよね。愛する主体が眺める存在は想像的な他者=小文字の他者――<小文字のa>――なのだから。

‥‥‥で、そうなると「現実界からの答え」がさっぱりわからなくなるわけで、、、。

 

いやいや、「女は存在しない」だって、結局はこういうことなのだ。言葉で飾ろうとしたって、出来損ないの「女」しかできないぜ。だいたい、どうして女が男の劣化版としか古代の人びとは考えなかったのだろう。どうして男の方こそが女の出来損ないであると考えないのか!(コレは冗談)

ま、仏教経典を読んでいてもそうだもんな。「女」を決定する記号は極めて男性的(男性性を確保する男根的)な性格を帯びた、女根によって示唆されるのだ。ジジェクの<身体なき器官>がいかに言い当て妙か思い知らされるよ。

 

付言

ここでは(長くなるから引用しなかったけど)、ジジェクの『快楽の転移』で展開されているオットー・ヴァイニンガーをラカン派の知見から批判検討する章もなかなか興味深い。