aphanisis

すべて真実

ボクはそれでもなお生きている

「ばかな人間を利口にすること以外なら、精神分析は何でもできる」 《La psychanalyse peut tout sauf rendre intelligent quelqu'un d'idiot.》

 

ラカン

 

転移は精神分析の場を成立させる現象であるとは言ったが、これは必ずしも正しいわけではない。精神病者にとって、転移とは脅威だからだ。

精神病とは、しばしば対象aの氾濫であるとラカンは言った(60年代)。声や眼差しの氾濫である。テレビや電話から自分の悪口が聴こえてくる。窓の先の闇から此方を監視する視線を感じる。精神病は大他者の場から対象aをもって自らを攻撃するのだが、このように、精神病者にとって「見られている」「知られている」状況は極めて恐ろしいものなのだ。

したがって、分析家への転移によって「この人物は自分のことを知っている」という確信に近い考えが生まれた途端、分析家は精神病者にとって敵となる。

 

もっとも、こういう事態は精神病者だけに特有のものではない。過去に性暴力や虐待、虐めを経験した人間にとっても、巨大な他者として顕れる分析家は恐怖の対象、あるいは、敵と考えられるのではないか、とボクは考えている。

なぜなら、一部の人々にとってトラウマとはプライドの根源であり、しばしば神秘でさえあるからだ。

このような精神は、「こんな辛い経験を経て今の私は存在する」という力強い意志(これ自体はポジティヴなことだと思う)を持ちつつも、どこか排他的な意志(「誰にもわかりはしない」)や、「そんな過去をもっていても生きているボク /    わたしは強くて偉い」といった誇りの意志が混在しているときに確認できる。中井久夫の言葉を引こう。

 

 

心的外傷には、土足で踏み込むことへの治療者側の躊躇も、自己の心的外傷の否認もあって、しばしば外傷関与の可能性を治療者の視野外に置く。  

しかし患者側の問題は大きい。それはまず恥と罪の意識である。またそれを内面の秘密として持ちこたえようとする誇りの意識である。さらに内面の秘密に土足で入り込まれたくない防衛感覚である。たとえば、不運に対する対処法として、すでに自然に喪の作業が内面で行なわれつつあり、その過程自体は意識していなくても、それを外部から乱されたくないという感覚があって、「放っておいてほしい」「そっとしておいてほしい」という表現をとる。 

 

中井久夫「トラウマとその治療経験」『徴候・記憶・外傷』

 

中井久夫は凄いなあ。ほんとに的確だよな。恥と罪。しかし、それを持ちこたえようとする誇りの意識。ボク的な言葉では「神秘」だけど。伝説的と言ってもいいかもね。

 

ただ、知られたい欲望と知られたくない欲望って鬩ぎ合いつつ存在するものだと思うのだ。ここ4年ぐらいの実感では。

 

だいたいトラウマを「知られたくない」人は、それが他者に「知られるように」失敗することがあるように思われる。つまり、無作為のようなかたちで明かすのだ。無意識の形成物ってやつ。こういう場合は、極めて強烈に孤独を感じている人間に多い気がする。あるいは、自分が弱くてどうしようもない存在である、と前提的に価値判断してしまっている人に少なくない。

 

ボクかい? ボクは別にどうも思わないよ。人なんて皆んな辛いんだから、自分のトラウマを誇りに思ってないとやってらんないっていうのも察しがつく。自分もほんの一時はそうだったからね。いまは無い意識だけど。

 

まあ、数年前にも上みたいな状態の知人がいたけど、完璧に臨床向きでは無いよな。医者はせいぜい「治療」しかしないからな。彼の望んでるようなことを医師はしないよ。

もっとも、すでに内面の体験が明確に「伝説」としての価値を帯びていたから、かなり排他的でもあったんだが。