あんまり大事なことを人は話すべきじゃあないよ。この場合、「大事なこと」とはトラウマである。
トラウマは心の深い瑕だ。深い瑕だけれど、それだけに自分にとって親密なものだ。優しさだって憶えるだろう。愛しささえ。
ラカンの最終期の思想は主体と症状の同一化だが、扱い方によっては、心の瑕と、そこを起点とした心の病は助けになるのではないか。いや、そもそも病が初めから「救い」であったと、どうしてみてはいけないのだろう。
大事なことを綴ったり話したりしたあと、充実感とか達成感とか、そういう肯定的な充足の味わいを得たことはないな。ボクは。
むしろ、ポッカリ穴が空いたような気がするよ。語ることで何かが死んじまったような感じ。浄化katharsisとは違う感覚。そういえば、寺山修司の『田園に死す』に出てくる「私」も似たようなことを言っていたな。