我が麗しき恋人がジツニツマラナク、またクダラナイ悩みを抱いているようだ。あまり頓珍漢なことを考えてちゃあ、健康に良くないぜ。
ボクのタチなんだと思うよ。なにかヨセツケやすい。そしてこちら側ものりやすい。その対象に解剖学的な性の差異はないようだ。ただ、ボクの関心ってのはせいぜいフツーの友情か、たまに症例としての関心だよ。
いわゆる「病んでいることを自供する」ひと(男も女も)の相談を受けやすいけれど、こちらとしては「友人」枠がつよいね、最近は。昔はパーペキ、フロイトの臨床と比較してたけどね。まあ、どっちが倫理的な振る舞いであるかは考えどころだね。どっちも非倫理的かもな。
そりゃあ彼なり彼女なりはボクに強い関心とか愛着とか尊敬とか抱くでしょう。なぜなら「愛している」のだから。
もちろん、この場合の愛とは転移的なものである。だからこそ、ボクはおそらく、いつでも急に疎まれるだろうし怖れられるだろうし、あるいは屑として棄てられる身分にあると言えるのだ。
だが、言うまでもなく、コレは一般的な話だ。ロラン・バルトも『恋愛のディスクール』のなかで言ってるでしょう。転移はどこにでも溢れている、と。いまボクは電車だけどさ、電車のなかにも駅にも駅の外の店にも公苑にも無数の家々にも、転移する主体はいるんだよ。君だってそうだろう。ボクだってそう。だから、人と人の間で転移の友人関係が成立するんだ。
第一、我が麗しき恋人はそのあたりのキャベツ頭に比べたら明晰だし物知りだし面白いし、優しさを知っているんだから、ボクが上で言っているようなことは了解済のはずだろう。だから、問題はそういうことじゃあないわけで。既に知っていることを知ったところで、ますます苦しみは増すことだろう(このことも了解していることを見込んで)。
けど、救いがあるとしたら我が麗しき恋人は、自分の悩みがジツニツマラナク、またクダラナイことを知っている点だな。だから、やめりゃあいいんだけどね。それだけの話だってこと。わかるけどね、嫉妬のマゾヒズム、経済論的なはたらき。
まあ、このことだって知ってるんだろうけどさ。
ところで、ボクが1番醜悪だと思うのは学校とかの教員に対する転移だな。器用にも、「学校」に転移する輩もいる。ああいう倒錯者に比べれば、よっぽど救いようがあるよ。