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すべて真実

ディグナーガの認識① 知覚について

以下、インドCのメモ。仏教ネタは次回で最後にさせるつもり。

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 仏教論理学は大きく二種に大別することができる。それは認識論と討論術である。ディグナーガの主著『集量論』の構成も、この二者を混ぜ合わせたかたちでとられている。すなわち、認識論を扱った章が第1章「知覚論」、第2章「推理論」、第5章「アポーハ論」であり、討論術は第3章「論証論」、第4章「喩例論」、第6章「誤難論」で検討される。

 ディグナーガは認識の手立てとして〈知覚 pratyakṣa〉と〈推理 anumāna〉のみを認めている。知覚とは対象そのものから獲得される直接的な認識であり、ディグナーガによれば、これは〈個別相 svalakṣaṇa〉より与えられる認識である。対して推理とは言語に依拠した認識を指し、〈普遍相 sāmānyalakṣaṇa〉によって与えられる認識とされている。パラフレーズすれば、知覚とは概念化(言語による操作や関与といった活動)が媒介しないものであり、推理は命名や普遍を結び付けた概念化と不可分な関係にある認識であると述べられる。もっとも、このようにディグナーガが知覚を推理の裏側であるかのように定義づけている点は注目されるべきであろう。

 

 

 桂紹隆はディグナーガが個別相と普遍相に明確な定義を与えていない点を指摘し、その原因について、両者ともに説一切有部以来の思想であるためだとしている。たしかに説一切有部は存在のダルマがそれぞれ独自性を保つ性格を<自相>と名づけ、またあらゆるダルマに認められる—たとえば諸法無我のような―共通の性格を<共相(ぐそう)>と言っている。おそらく桂紹隆の指摘はこのことを言っているものと解される。しかしながら、即時にディグナーガの自相―個別相が説一切有部のそれと厳密には異なる点を桂紹隆は論じている。なぜなら説一切有部の定義する自相とは、ディグナーガにとっては普遍相に属するからだという。端的に言えば、説一切有部はダルマを自相として規定する際に、概念化のプロセスを踏んでいるからである。したがってディグナーガの定義は依然として詳細さに欠くと言わざるをえず、それだけにのちのダルマキールティによる補足が重大な意義を帯びるのである。

 

 石田尚敬はディグナーガの認識論において、認識の手段が認識そのものである点に注意が払われるべきであると言っている。

 

 

ディグナーガに始まる認識論において、認識手段とされる知覚や推理は、あくまで〈認識そのもの〉と捉えられている点は注意しておきたい。すなわち、認識手段といっても、眼や耳を初めとした感覚器官などが「手段」として位置付けられるわけではない。[1]

 

 もっとも、それだからといって知覚から身体性がまったく排除されているというわけではない。ただ、ディグナーガは感官を「手段」としては扱わなかったということだ。そればかりか、むしろディグナーガは下にみるように知覚が感官をとおして経験される認識であることを『集量論』において認めている。

 

さて、何故〔知覚は感官(akṣa)と対境(viṣaya)の〕二つに依存して生起するにもかかわらず、pratyakṣa と呼ばれ、prativiṣaya 〔とは呼ばれないのか〕。〔知覚にとって感官が〕特有の原因であるから、それ(=知覚)は、諸感官(akṣa)をもって命名される。(PS I 4ab) しかしながら、色を始めとする対象によって〔命名されるの〕ではない。それというのも、諸々の対境は意識や他相続に属する知と共通だからである。また、特有なものにもとづく命名が実際に見られる。例えば、鼓の音、麦の芽というようにである。従って、知覚は分別を欠く〔という〕このことは成立している。[2]

 

 

「知覚」(pratyakṣa)という〔語〕は、感官に依拠した(pratigatamakṣam)〔という意味〕である。 pra に始まる〔語群が複合された〕複合語(pradisāmasā)14 である。これ(=知覚)が定義対象である。[3]

 

 このように、ディグナーガ自身によって知覚が身体と不可分な関係を結んでいることが指示されているのである。

 『集量論』でいわれている感官とは、六根のうち意根を例外とした五根である。それゆえディグナーガの―こういってよければ―感性学的知見は原始仏教以来の伝統を踏襲したものであると言ってよい。あるいは六内処と六外処の相互的な作用、ならびにそこから生じる六識の働きを重視した説一切有部に由来した思想だと言うこともできる。

 しかしながら、ディグナーガの知覚理論において、知覚が常に身体的な次元における作用であると言い切ることはできない。なぜなら身体の内的領域における認識、すなわち<内官 manas>における認識という、やや特殊な知覚が想定されているからだ。<意知覚 mānasa pratyakṣaと呼称されるそれは、外部の対象より身体の内的領域に与えられた認識である。ディグナーガは意知覚に対し十分な説明をしていないが、しばしば研究者の間では意知覚には2種類があると見做されている。ひとつは先述したような内官による知覚であり、いまひとつは心のはたらきに寄せる知覚である。

 このほか、伝統的な教説や師の教えといった言説――概念――から離れた瑜伽行者の知覚、自己認識の知覚をくわえた4つが知覚の種類として存在しており、感官を不媒介とした知覚が定められてはいるものの、ディグナーガ自身による詳細な定義が与えられていないことが多い。

 意知覚(心の作用に対する認識)と4種目の知覚(自己認識の知覚)はいずれも<概念知  kalapanā-jñāna>を与える認識とされており、感官にもとづいた直接知とは対立する。したがって知覚には4つの種類があり、そのうえで直接知と概念知のどちらかの結果を付与するという、それぞれ異なった機能をそなえた知覚に大別されるのである。そして、概念知が概念と密接な関係を結んでいるためにこれが言語に関与する知であるといえ、さらにディグナーガが定めたもうひとつの認識の手だてである、推理に関与するのである。

 

 

 

 

[1] 石田尚敬,「瞑想者の認識をめぐる考察 仏教認識論・論理学派を中心に」.(愛知学院大学禅研究所,2016年),5.

[2] 吉田哲「Pramāṇasamuccayṭīkā 第一章 (ad PS I 3c-5 & PSV) 和訳」,インド哲学研究会『インド学チベット学研究 15』所収.(インド哲学研究会,2011).5.

[3] 吉田哲「Pramāṇasamuccayṭīkā 第一章 (ad PS I 3c-5 & PSV) 和訳」,インド哲学研究会『インド学チベット学研究 15』所収.(インド哲学研究会,2011).7.

 

 

 

 

参考文献

桂紹隆「法の概念」.青原令知編『倶舎 絶ゆることなき法の流れ』所収.自照社出版.2015年.

桂紹隆「ディグナーガの認識論と論理学」.梶山雄一ほか編『講座大乗仏教9 認識論と論理学』所収.春秋社.1984年.

石田尚敬「瞑想者の認識をめぐる考察 仏教認識論・論理学派を中心に」.『禅研究所紀要 44号』所収.愛知学院大学禅研究所.2016年.

吉田哲「Pramāṇasamuccayṭīkā 第一章 (ad PS I 3c-5 & PSV) 和訳」,インド哲学研究会『インド学チベット学研究 15』所収.インド哲学研究会.2011.

吉田哲「ディグナーガの感官知説とアビダルマの伝統」.『仏教学研究65号』所収.龍谷仏教学会.2013年.

木村誠司「『倶舎論』における'svalakṣaṇadhāranād dharmaḣ'という句について」.『駒沢短期大学仏教論集 7』所収.駒沢短期大学仏教科研究室.2001年.

 

 

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しかし、俄然、面白くなってきた、認識論と論理学。

もうすこしだけ雑談すると、ディグナーガの<個別相><普遍相>=説一切有部の<自性><共性>なのかがいまの自分にとって気になるところ。時間があったらやりたい。それからやっぱり原始仏教において時間と感官は関係づけされているのか知りたい。基本的な感性学である十八界の作用は空間的な作用だと思うから。

なお、学期末レポートは論理学派における帰謬論証の検討を軸にしようと考えています。

 

授業関係でいえば、今学期はまじで説一切有部、中観、認識論・論理学に時間を割いたものだ。おかげで唯識はどこいっちまったのか、という感じではあるのだけれど、説一切有部がわからなきゃなにもわからないな、という感想を抱いている。そして、説一切有部の前提になったアーガマ系思想も(窮極的には、もっとずっと昔からつづく古代インド思想も含める必要があるのはわっかているが、とりあえず説一切有部といいていいと思う)。