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すべて真実

ディグナーガの認識② 推理について

前回のつづき。短いけれど

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 ディグナーガによれば、知覚は感官をつうじた直接認識とされ、それは普遍相を由来とする認識と対立する。なぜなら普遍相に依拠した認識は、認識の経験の前提に言語を介する――概念化を必要とする――からだ。感官の作用に依らず、また概念化の過程を経た認識によって獲得されうる知を、ディグナーガは概念知と呼んだ。そして概念知を生む認識は推理と呼ばれる。

 ここで仮定の状況を基に両者の差異を確認する。まず知覚について。たとえば眼を隠された主体――仮にこのように呼ぶ――に対して水を差しだしてこれが何かを問うたとき、主体は身(触覚)や舌(味覚)といった感官の作用にもとづいて、これをそのものとして認識するだろう。つまり、いまだ主体にとって水は謎の存在であろうが、すくなくともそこから得られる感覚的な触知のみは認識しえるだろう。これが知覚という認識である。しかし、主体が感官的な作用を素材に、これを「水だ」と判断することも予想できよう。おそらく、ディグナーガにとってはこれ―筆者がいま「判断」と述べた経験―こそが、推理とよばれる認識なのだろう。ディグナーガのつぎのパッセージは、この定義の許に読まれるべきなのだろう。

 

アビダルマ文献においても〔次のように〕語られている「眼識を伴う者(cakṣurvijñānasamaṅgin)は、青を認識するけれども、「青である」と〔まで認識するの〕ではない」 と。〔つまり、眼識を伴う者は〕対象に対して対象の知をもつけれども、属性の知をもつのではない、と。[1]

 

 

 したがって二者は全く異なった次元に基づく認識ではあるものの、無関係ではない。知覚が身体と不可分な認識であるのに対し、推理は言語活動と不可分な認識である。しかし、言語活動は知覚によって生じるため、両者は関係性を帯びているといってよい。

 

 

 

 

 注

[1] 吉田哲「Pramāṇasamuccayṭīkā 第一章 (ad PS I 3c-5 & PSV) 和訳」,インド哲学研究会『インド学チベット学研究 15』所収(インド哲学研究会,2011).5.

 

 

参考文献

桂紹隆「ディグナーガの認識論と論理学」.梶山雄一ほか編『講座大乗仏教 9            認識論と論理学』所収.春秋社.1984 年.

吉田哲「Pramāṇasamuccayṭīkā 第一章 (ad PS I 3c-5 & PSV) 和訳」,インド哲学研究会『インド学チベット学研究 15』所収.インド哲学研究会.2011.