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すべて真実

疑問3点 ディグナーガのおまけ

実は、認識論を齧りはじめたのはここ1週間程度のことである(念のために言うが、なにも誉められたような話じゃない)。したがって、付け焼き刃な知識も多く、読解もちゃんとできてるか不安な点が多い。しかし、めっちゃ面白いのは確かなのである。アビダルマとか華厳とか空より、よっぽど面白い。なぜだろう。たぶん、今年の僕の関心(感性学っぽさなど)とマッチするんだろうな。

以下、ちょっと認識論を掠めた人間が疑問に思っていること3点を付す。

なお、これはレポートじゃないから書式は通常通りべらぼうである。

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①推理は知覚の延長にあるか。

 桂紹隆はつぎのようなことを言っている。

 

眼前の火そのものを知覚するばあい、結果は火の知覚という対象認識であり、山にある火を煙から推理するばあい、結果は火の一般相の概念知という対象認識である。

 

桂紹隆「ディグナーガの認識論と論理学」

 

 この文章でわたしが気になるのは、「火を煙から推理するばあい」という一節である。なぜなら、ここで火を推理しようとする主体は、前提的に知覚というかたちで認識しているだろうからである。煙から火を認識しようとすることができるのは、当然ながら前提的に煙を眼でとらえているからである。ここでいう眼の作用とは感官の作用なのだから、知覚といってよいだろう。したがって推理が知覚の経験に用意されていると考えられる以上、推理は知覚の延長線上にあると考えることができる。

 

 

②相について

 しかし、そうであるなら認識対象の性格は認識の方法によって決定づけされることにならないだろうか。わたしたちは「煙」を前に「あれは煙だ」と推理するより以前に、その色味や厚みを知覚しうるからである。換言すれば、主体は煙を「煙」と認識しないこともできるし、することもできるのである。ゆえに、知覚と推理の差異は、ただ語や普遍を与えないままでいるか・与えるかという選択に限られるのではないか、という疑問である―あくまで疑問―。

 ディグナーガは知覚と推理の対象をそれぞれ定めていた。知覚とは固有相から与えられる認識であり、推理は普遍相から与えられる認識であると。しかし、上のような疑問を抱く筆者にとっては、むしろ対象―相の性格は、(認識する)主体の認識によって決定づけられるのではないだろうか。しかし、後に見るように『数量論』に註をほどこしたジネーントラブッディは、認識の方法は対象に依拠することをはっきりと述べている。

 

 

③知覚における独自性は主体の独自性に依存するか否か

 ディグナーガによれば、感官の対象は独自に認識される。しかし、この場合の独自とはなにであろうか。ジネーンドラブッディは次のような解説をしている。

 

それでは、それ(=感官知)の認識対象(alambanā)はどのようなものか、ということについて、「独自に認識されるべき……」云々と〔ディグナーガは〕述べたのである。「独自に認識されるべきもの」とは教えによらないもの(anagamikā) である。語られ得ないものが「表現され得ないもの」である。あるいはまた、「独自に認識されるべきもの」と述べられたので、それはいかなる本性のものであるかということが述べらねば(引用者註 : ママ)ならないから、「表現され得ないもの」と述べたのである。ところで、それ(=感官知の対象)が〔言語的に〕表現され得ないのは、二つの知の形相にちがいがあるからだ、と考えられるのである。それというのも、凡そ言語知と感官〔知〕との両者の顕現は異なる。〔感官知の顕現は〕明瞭であり〔言語知の顕現は〕明瞭でないからである。というのも、感官が作用している者の感官知に対象の姿が明瞭な形で顕現するのと同じように言語知に〔対象の姿が顕現するの〕ではないからである。また、もし、まさに〔そのような〕感官の対象が〔言語的に〕表現され得るものであるとすれば、言語知にも〔感官知におけると〕全く同様に〔対象が〕顕現するはずである。しかしそうではない。そして、言語知に顕現しないところのものは語の対象ではない。従って、異なる形相をもつ知によって把握されるから、〈白性〉などという〔言語的に〕表現され得るものは、感官の対境ではない、というのである。

 

 吉田哲「Pramāṇasamuccayṭīkā 第一章 (ad PS I 3c-5 & PSV) 和訳」

 

 ここに「それ(=感官知の対象)が〔言語的に〕表現され得ないのは、二つの知の形相にちがいがあるからだ、と考えられるのである」という文言が登場するが、そうなると知覚の対象は前提的にそもそも言語化できないものだということになるだろう。したがって、対象の性格と認識の方法は(十二処の関係のように)等価に結び合っていることになるーーしたがって、自分の理解が妥当なのかどうか(上二つの疑問がまったく見当はずれの可能性が浮上するわけで)疑わしくなるのである。

 なお、わたしは当初、個別相における「独自性」とは主体の身体やダルマの独自性といった、認識する側の性質に依拠するものと考えていたがーーつまり、たとえば身体やダルマは一人ひとり異なるわけだからそれに伴うものかと考えていたーー、どうやらそうでもないらしい。

 

 

 

・・・いやー、困った。そういうわけで、あした我らがN島准教授にご教示願うのだ。