■ph■nisis

すべて真実

空のあおみ

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空の色が脳にくるね。肉体の網膜で見てるのか脳内網膜で見てるのか、もう自分でもわからんよ。

布団かえたら寝心地がよくって寝坊をした。朝寝もした。惰眠をするなら抜けるような青空の日の朝がよい、と古井由吉も言っている。人が忙しなく働き学んでいる時間にこんこんと眠るのだ。もっとも、古井由吉は次のような註を忘れない。その前までよっくよく働いておくのがよい、と(たしか言ってた)。

実際、朝寝をしていると。人々が活動している気配を我が身の内に感じることもある。気のせいという気もしない。隣宅の女が布団を叩く音が宙に響いていた。

身体を起こしてもなかなか布団から出ない。夜のうちに準備していたグラスに水を注いで飲む。熱い肉体のなかを、ゆるやかに涼しい水が流れ落ちていくのがわかる。不思議と頭痛もしない。元来、眠りすぎると頭が痛くなる身体なのだが。気がつくと胡座の両足で湯湯婆を挟み込んでいた。

昼飯を食って屋根に椅子を用意した。口から本日一本目の煙草を燻らせつつ、ふと書架から取り出した西田幾多郎を、3年ぶりに読んでいた。

西田幾多郎は、メルロ=ポンティの影響を受けることもなく、キアスムの論理にちかい論理が存在の場で働いていることを述べている。彼は「論理と生命」において、「身体は見られるものなると共に見るものである」と明言している。主体と客体の共存が存在論的性格であるとする主著は、まさにメルロ=ポンティの交叉の概念を思い起こさせる。

しかし、両者の決定的な違いは、西田の場合は存在論的な運動が外部から働いていることである。換言すれば、主体は客体の内側に存在するという前提がある。だから、「身体はみられるものなる」と、はじめに身体は定義づけられているのだ。いうまでもなく、ここには参禅者としての西田を発見することができる。