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すべて真実

饂飩屋と一保堂

 

「私」   

大女将さん、この茶はたいさう美味しいですね。私はお茶を滅多に知りませんが、これはきつと、さぞや銘店なのでせう。

 

「大女将」   

ゝ、寺町通は一保堂の、茎煎茶でございます。

 

 

定本『兵の字日記』星霜書房.

 

 

 

一保堂の茶をはじめて飲んだのは、今はなき東山の饂飩屋、大明神本舗で出された煎茶である。

平安神宮まで人を導く神宮通には、飲食店やら菓子屋やら宿やらがぽつりぽつりとある。近年できたものや古くからあるものなど様々で、かなり奥待ったところには、つまり件の神宮があともう一歩というところには、京都国立近代美術館がある。

 

大明神本舗に行ったのは大学受験のちょうど前日である。本来ならば受験生らしく緊張感をもたねばならないところだが、1人で京都ということもあり、午前は四条の古書店で時間をつぶし、どれ夕方には美術界でも行こうかと、近代美術館に赴いたのだ。

ところが、ちょうどこの時ゴッホが回ってきていたため(しかも土曜日だった気がする)、女浪男浪も絶え間なく、上野並みの人だかりである。1時間程度ならまだしも、2、3時間と待つのは億劫だったので早々に諦めた。

 

神宮通を引き返すなかで昼を喰っていないことに気がついて、どこかで蓄えねばならないと思われた。駅まで引き返すのも面倒だったので、ここいらで済まそうと辺りを見渡し、たまたま目に留まった例の饂飩屋に決めた。

結局、ここでも待った。1時間近くは待ったのではないか。馬鹿馬鹿しくなるほど人が並んでいるわけでもなかったのだが、饂飩は茹でに時間もかかるだろうし、店舗も見たところ30人程度しか入らない規模だった。けれど時に腹はかえられないと、辛抱強く待った。

 

店内は高天井で、渋茶の木が淡い照明に照らつく造り。入口左が厨房だった。大女将さんに奥の方の席を案内され、おしながきを渡された。

悩んでる間、先程の大女将さんが茶を運んできてくれた。渋い湯呑みから白い湯気がゆらめいていた。メニューを眺めながら茶を口許へはこぶと、えらく芳醇な香りがする。深い味わいとは、このような感動を言うんだろうと思った。

いろいろあったが、わたしは黒毛和牛と九条葱の饂飩と決め、大女将さんがこちらに来られるのを待った。鞄から昼前に四条で買った、ロジェ・カイヨワの『自然と美学』を捲りながら。

実は、カイヨワを実際に読んだのはこの時が初めてだった。以前から存在は知っていたし、ラカンをはじめとする思想家たちに多大な影響を与えていたこともよく知っていた。『自然と美学』やカイヨワについてはまた別記事で書くとしても、夢想的ながら力強いこのエッセイに強く胸を打たれたものである。

大女将さんが注文を聞きに来られたので、このお茶がたいへん美味しかったことをお伝えした。

 

「大女将さん、この茶はたいへん美味しいですね。私はお茶を滅多に飲まないので味は分かりませんが、これはきっと有名なお店なのではないでしょうか」

「ありがとうございます。こちらは寺町通に本店を構えます、一保堂さんの茎煎茶でございます」

 

大女将さんは淑やかに微笑みながら、教えてくださった。

注文を済ませたあと、わたしの湯呑みが空であることに気づいて、大女将さんはまた茶を注いでくれた。こぽこぽと音が立ちながら、淡い湯気が立つ。去り際、本を読んでいることに対して、「お勉強熱心なのですね、難しそうな本を読んでおられる」と言われ、思わずしゃっちょこばったようになってしまった。大女将さんは、また優しく微笑んでいた。入れ替わるようにして若女将さんが来られ、「お待ちどおさまです」と、饂飩を運んできた。饂飩も美味しく、みるみる食べた。こんなに旨い饂飩は知らないと、若女将さんが蕎麦湯(この場合は饂飩湯か)を持ってくる前に、汁も飲みきってしまった。若女将さんは申し訳なさそうに、「もっと早く持ってくればよかったです」と謝った。こちらは思わず恥ずかしい気持ちになり、照れ笑いをしてしまったが、「でも、私もよくそのまま飲んじゃいます。美味しいですよね」と言ってくだった。大女将さんと同じように、淑やかに笑われる方だった。

店を出る直前、わたしは大女将さんに一保堂の名前をもう一度だけ確認して、寺町通の本店へ向かった。麦茶やら玉露やら。親しい方々の分も含めて、土産にしたものだ。

 

 

爾来、京都に行くたびに必ず買うし、池袋の別店もよく訪れる。なお、わたしの恋人はわたしが知るよりずっと前から一保堂を知っていたらしく、悔しい気持ちを抱くと共に妙な尊敬心みたいなものを感じた。

 

茶は、人にお贈りすると高確率で喜ばれる点も良い。つい3ヶ月ほど前にも一保堂の茶を詩人にお贈りしたのだが、お返事のお便りから、たいそう喜んでくださったことが窺えて嬉しかった。

 

今もこれを打ちながら、一保堂を飲んでいる。

 

 

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さいきん拵えた茶たち

 

 

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