■ph■nisis

すべて真実

1月の終わりに

 

1月27日はわたしの生まれ日である。

同時にアマデウスモーツァルトの誕生日でもあるため、くる年も何処かしらでこの音楽家を祝う言葉(メッセージ、催物、祭典…)を目にする。

そのことを知っている人は、よく、「なんだか納得した」という言葉をわたしに向ける。悪気など微塵もないだろうが、わたしはモーツァルトを極めて醜悪な対象だと考えている。それは遥かに幼い頃からの印象で、たぶん父母が好んで[教育]の一環として幼児期のわたしに聴かせた頃には既に芽生えていた心情だろう。

同じぐらい、わたしはこの日がルイス・キャロルの誕生日であることを忌み嫌っている。『不思議の国のアリス』や『鏡の国のアリス』を麗しい御伽噺と考えている人間に限って羨ましいと言った言葉をかけてくるのだが、あなたはおそらくキャロルを読んでいないのだろう。一々ここでキャロルの倒錯を、作品から引いて指摘するつもりはないのだがーー第一、この男の書物は箱に仕舞い込んでいるーー、ここで藤田博史による論考を引くことはできる。それが結局のところ、自分が倒錯に近しいことを明言するようなものであったとしても。

 

 

キャロルに関していえば、 ノン-サンスを、それまでにないまったく新しい形で提出し得た功績が賞賛に値するのはいうまでもない。問題は、そのようなノン-サンスを生み出さざるを得なかった、 ノン-サンス発生の構造である。実は、キャロルのノン-サンスは、正確にいうなら無–意味(ノン-サンスnon-sens)ではなく、反–意味(コントル–サンスcontre-sens)なのである。 これはサンスなしでは成立し得ない、もう一つの形のサンスであり、いってみればこれは「サンスの陰画」である。この陰画としてのサンスは、かれの少女愛の発生の構造と深く関わっており、 意味がないどころか、欲望する主体が紡ぎ出す、 きわめてダイレクトな形の意味である。 キャロルのノン–サンスは、たとえば精神病者のそれのごとく、 根源的な無意味から、 つまり口ゴス以前の場所から湧いて出てくるようなものではなく、 ロゴス獲得後に、「現実の否認」がロゴスによって反復される倒錯者のそれである。ここには、「存在」としての精神病と、「構迴」としてのとの根本的な違いがある。

 

藤田博史少女愛のアヴァタール ルイス・キャロル論」『性倒錯の構造』

 

実際のところは、モーツァルトルイス・キャロルといった人々と生日が重なったことを喜ばしく思っているのだろうか。嫌悪は時に悦びの一形態としてーー正確には嫌悪のような姿をしてーー顕れうるからである。

しかし、仮にそうだとして、ではモーツァルトを聴いた時の耐えがたいような不快感だとか、キャロルに対する侮蔑的な感情は、いったいなんなのだろう。実際、誰かと誕生日が重なったことにはしゃぐ人間ではない。誰であろうと。シニカルな気持ちなど全くなく、わたしはグールドとアファナシエフの手がけるモーツァルトなら聴ける。それに、たいていこういう悦びが不誠実なものであろうことは、言うまでもない。

 

だが、「誕生日が同じ」ことに対する嬉しさをひとまず、仮に、肯定するなら、それに近しいところで、わたしは1月27日という日がジュゼッペ・ヴェルディの忌日であることを嬉しく思う。そして、1951年のこの日、すなわち今よりちょうど70年前のこの日にアルトゥーロ・トスカニーニがおそらく絶大な畏敬の念を込めて振ったであろう、あの『レクイエム』が記録されたことを、たいへん悦ばしく思う。

 

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1月某日

家族に祝われる。抱負を訊ねられる。

21の時の父母の経験を聞く。

 

1月某日

恋人と会う。昼を喫茶店でとる。のちに、古書店マンディアルグ、バルト等を買う。

恋人にバタイユの『眼球譚』を贈る。

 

1月某日

先立ってレポートをひとつ終わらせたので昏々と眠る。

起きて飯をつくり、デリダクロソウスキーの短いエッセイを読む。『ニーチェは、今日?』。パロディ。

 

1月27日

レポートで日を迎える。後悔はない。意味するところは、学びの年になるだけだと思う。すべてではないにせよ。

そもそも、自分の元旦の迎え方と同じだ。僕の新年の迎え方は、その1年の間に行われるべきこと、計画、抱負の内容に即している。たとえば、その年に学びたい分野の本を読んで迎える、その年の研究対象になる録音を聴く。そのようなかたちで、年を迎える。

恋人から荷物が届く予定。

 

隠者。吊られた男。女帝。

 

 

 

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Glenn Gould- Turkish March