aphanisis

すべて真実

過激な変奏

 

考え事をしていたら、もう日を大きく跨いでいた。

記事をひとつ書く。

 

前の通り。だがそれは重要ではない。時間は存在しない。けっして存在しなかった。裸形のエクリチュール。なんにせよ、なんであったにせよ、それ以前。おそらくは熱烈な視線。もう取り返しがつかない。誰も動かないのに運動がある。

 

フェリックス・ガタリ著,宇野邦一松本潤一郎訳『リトルネロ』.

 

そうだとも、そうだとも、そうだとも。時間は存在しないよ。

 

過去を変えることは不可能であるという思い込みがある。しかし、過去が現在に持つ意味は絶えず変化する。現在に作用を及ぼしていない過去はないも同然であるとするならば、過去は現在の変化に応じて変化する。過去には暗い事件しかなかったと言っていた患者が、回復過程において楽しいといえる事件を思い出すことはその一例である。すべては、文脈(前後関係)が変化すれば変化する。 

 

中井久夫統合失調症の精神療法」『徴候・記憶・外傷』

 

過去を振り返った時に辛い経験しか想起されないのは、現在の過酷さに由来しているという事態は実際ある。過去にできた疵にかかわる人物を未だに憎んでいたり、愛していたり、あるいは懴悔を望んでいたりするのであれば、間違いなく過去は悲痛な価値を帯び続ける。私自身、辛い経験を味わっていた同時期の細やかな楽しみを、きょう発見することはできる。そしてそれが現在のわたしと不可分な関係を結んでいることもよく知っている。

もちろん、付き合い続けるという選択肢はなんら許されざるものでもない。その意義はどうあれ、しかし、そうであるなら、未来の不安もまた現在の地点から拭うことが可能であると考えてもいいだろう。現在の幸福が将来に擁かれることに関して、不都合はない。

 

 

「龍夫ちゃん、あたしもういやになった。どうしてこんな旅をしなきゃならないの? こんなことするのに何の意味があるの?」
「意味なんかありゃしないよ。ただ始めたからにはつづけなきゃならないんだ。人生と同じだ」
「もうしんどいよ。人生はやめられなくても旅は途中でやめられるよ。やめてアメリカに帰ろうよ」
「帰ったって同じだよ、しんどいことに変りはないさ。どうせ同じなら変化があるだけ旅している方がましだと思わない?」
「毎日食堂探し、ホテル探し、行き場所探しでもう疲れた。何も見たくない、飽き飽きしたよ。どこかぱっとおいしいものを食べて、帰ろうよ」
「きみは疲労から逃避したくなっているだけだ。旅っていうのは最初の四分の一から三分の一あたりがいちばんきついんだ。今はちょうどその時期なんだよ。ぼくも一人で旅行していたときは十日目ぐらいがいちばん辛かったよ。発狂しそうなほど孤独だったし、よっぽど途中でやめて日本に帰ろうかと思った。だけど払った金がもったいないしさ、ここで挫折したらこの先何もやって行けない男になるような気がしてね。 死んだ親父にすまない、頑張り通そうって決心したのがつぎの日ぐらいだ。それからは最後までつづけてやるという意地だけで動いていたよ。だからさ、弓さん、全体を見通した上でこれは駄目だ、もうあかん、ときみは思うだろうけど、十日目の気分がきみにそう思わせているにすぎないんだよ」
「そうか、明日にはべつの気分になるかもしれないってことね」
「そうだよ、かならずなるよ」
「もっと悪い気分になって、もっと悪いことが起ったらどうする? やめて帰る?」
「そう思うのが十日目の気分なんだってば」
「じゃ、明日からはよくなるって保証してくれる?」
「少なくとも今以上に悪くなりやしないよ」
子どもたちを大声で呼び戻し、南に引き返した。

 

冥王まさ子『天馬空を行く』.