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すべて真実

恥と誇り ――トラウマの神話化、ホモソーシャル

 

 

 

 

兼ねてよりわたしはこのブログにおいて、次の中井久夫の短い文章をたびたび引用してきた。

 

 

心的外傷には、土足で踏み込むことへの治療者側の躊躇も、自己の心的外傷の否認もあって、しばしば外傷関与の可能性を治療者の視野外に置く。しかし患者側の問題は大きい。それはまず恥と罪の意識である。またそれを内面の秘密として持ちこたえようとする誇りの意識である。さらに内面の秘密に土足で入り込まれたくない防衛感覚である。たとえば、不運に対する対処法として、すでに自然に喪の作業が内面で行なわれつつあり、その過程自体は意識していなくても、それを外部から乱されたくないという感覚があって、「放っておいてほしい」「そっとしておいてほしい」という表現をとる。

 

中井久夫「トラウマとその治療経験」『徴候・記憶・外傷』

 

 

 

難しい話ではある。誰だってトラウマに対して「恥」と「誇り」という、ある種、分裂した印象を与えているだろう。

外傷経験を、想起とか症状というかたちで反復する人間は、外傷経験に対し、しばしば次のような態度をとるのではないか。「ああいう経験をしたのは自分に落ち度があるためなのではないか」「このような経験をしているのは自分だけであって周囲にはいない」など。家庭内暴力、レイプ、虐め。かような経験の反復は、自己否定という意識を生起させる。これが恥や罪と中井久夫が名づける意識である。

他方、こういった意識は誇りという意識に結び付く。辛い経験――外傷を堅く護る意識、あるいは、辛い経験を経た「わたし」という意識である。恥、罪、誇りの共存。中井久夫が「問題」としているのは、そういう患者(とここでは言われているのでこの語を使う)の意識が、しばしば治療の困難さを助長させているということだが、しかし、それは中井久夫が医師であり、患者の治癒を共助する立場にある人間であることが前提であるのを忘れてはなるまい。

わたしは特別、言うことはない。つまり、医師ではないわたしが言うことは何もないというわけで、実のところ恥と罪と誇りの共存は致し方ないことだし、近しい人間にそれを強要させたり、諭したりするような真似はしない、という立場である。友人をはじめ、近しい人に対しては、ただ「幸せに生きてほしい」と祈るばかりである。

 

ところで、恥と誇りとを内面にたたえた者同士が連帯という関係を構築した場合、これがひとつの共同体となりえる可能性を排除することはできない。そしてこれは、いわゆる〈ホモソーシャル〉な場を構築するのに十分な機能を果たしうる。

ホモソーシャルの本質とは、「ある物語を経験したわたし」ないし「わたしと同じような経験をした人物」以外の人間に、すなわち他者――しばしば異性、マジョリティと彼らが呼ぶ者たち――に対し、「お前(たち)には理解ができないだろう」という価値を一方的に与えるような共同体である。そこでは内輪の連帯と他者の排除という論理が緩やかに働いている――したがって理解という形であれ決闘という形であれ、他者との対話を諦めない人々はホモソーシャルではないと考える――。この種のホモソーシャルな場、つまり、外傷経験が関節の機能を果たすホモソーシャルな場は、自己のトラウマ的過去の共感や理解を得られた者同士で組織される。

郷原佳以は「非性器的センシュアリティを呼び戻すために 松浦理英子論序論」(『現代思想』「フェミニズムの現在」所収)において当にこの点、「異性に理解されえないものとしての「生理」の神秘化」、「「男の生理」「女の生理」と言われる意味での生理」の神秘化を論じている。本来なら松浦論を紹介してからこれを言うべきなのだが、この論文(そして松浦理英子)はむしろ、絶対に読まれるべき価値のあるものなので敢えてしない。したがって結論をいえば、脱神秘化こそマイノリティもマジョリティも目指さなければならないものであると、郷原佳以は断じる。

 

 

異性に限らず、他人にわかるわけのない特異なものとしての自分(たち)の経験を祀り上げる神秘化こそが問題なのである。だとすれば、松浦の問題提起が現代ますますアクチュアルなものであることは明白だろう。マイノリティもマジョリティも自分(たち)の経験の神秘化を止めない限り、ホモソーシャルな共同体から抜け出すことはできない。

 

郷原佳以,「非性器的センシュアリティを呼び戻すために 松浦理英子論序論」(『現代思想』「フェミニズムの現在」所収.

 

 

しかし、個人的な実感からすると、マイノリティにしてもマジョリティにしても、ホモソーシャルな場(から)の脱却、あるいは回避というのは、かなり高度な難問だろうと思う。いわゆる悪しき「当事者性」といってもいい。

ホモソーシャルな関係から抜けたところで、結局悪しき独我論に陥る可能性は避けがたく――ホモソーシャルを抜けたところで神秘化は抜け切れていない――、他者との対話の可能性がますます希薄になりかねない。それに、ホモソーシャルな関係を構築している人間は、決してホモソーシャルな関係(にあること)に悪びれないだろう。わたしは到底やろうとは思わないが、しばしば彼らは親しい人物であろうと遠い人物であろうと、外傷経験の共感や理解を得ようとしたがる――もっとも、わたし自身、必要と思われたときに、ただ「話す」だけならすることはあるが――。そして共同体における繋がりの深いものが経験の共感や理解である以上、その部分が靭帯の機能を失ったとき、関係性そのものの破綻に繋がりうる。ホモソーシャルな関係の、後々表面化しうる厄介さといってもよいかも知れない。

個人的には恥の意識も罪の意識も、それから誇りの意識も否定はしないよ。これらの別のヴァージョンは、生きる意志や他者との対話、政治活動の希望になりうるからな。ただ、すくなくとも「祀り上げ」だけはよせよな。醜悪だしみっともないぜ。