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すべて真実

正覚考

きのうの夜、zoom呑みの最後は鈴木との一騎打ちで、わたしは正覚講の政治について饒舌に語った。

正覚講とはわたしが参加している勉強会のことだが、鈴木が「ポリティカルな話」をふっかけてきたことを契機に、正覚講こそ政治である、ということを話した。それを踏まえて、このとき話さなかったことをここに付す。

 

 

ーー行為と状況としての正覚講、非ホモソーシャル、ウスネオイデス

 

正覚講とは共同体ではない。「集団」でもない。それは、メンバーひとりひとりが何某かの信条を共有しているということもなければ、何かを目指して集まった結果としてあるというわけでもないからである。むしろ正覚講は「場」としてある。それは「講」という語が「サークル・集団」という意味を副次なものにしていることからも明らかである。「講」とは歴史的にみて、まず「解き明かす」「考える」という〈行為〉を意味し、「法会」「集会」といった〈状況〉を指す。ゆえに「正覚講」とは「会」であり、それは活動そのもの、そして状況としての意味性を帯びる。

しかし、実のところ、これは今になってわたしが行った解釈である。正覚講を緩やかな性格を帯びた「場」とするなど、当初は考えられていないものだった。寧ろ、初期の正覚講は、堅い信条のもとに結成された、まさに共同体だったと言っていい。それが時間の流れの中で解体され、思いもよらぬ形になったわけだ。

したがって、場としての正覚講、あるいは理念なき正覚講は、メンバーの入れ替わりや具体的な活動ーー念のために言えば、正覚講の活動の半分程度は、非正覚講の人間が関与しているーーを通して産出されたものだと言える。理念を前提に活動を続けるという形態が崩壊した結果、正覚講は環境を条件に成立する、有機的で緩やかなものになったといえる。つねに運動を続けているからこそ、正覚講は言葉に回収しきれない性格をもった、何物かである。

 

正覚講が共同体でないことを論証するために、もうひとつ説明をくわえよう。エマニュエル・レヴィナスは、共同体はそれを構成する個人個人を反映すると言った。同じ信条を持った人間同士が共同体を形成した結果、その共同体そのものが1人の個人になると考えた。しかし、正覚講のメンバーが何か単一の(そして複数の)信条のもとに活動しているわけではない以上、共同体として存在していないことが論証できるーー同時にこの事実は、正覚講がホモソーシャル的でないことをも指示しているーー。

 

もうひとつ重要なのは、正覚講は大学が指定する機関ではないという事実である。正覚講が組織ーーしかも「大学」という機関ーーに傘下化されていない以上、ホモソーシャルな共同体ではないことが指摘できる。ゆえに正覚講は、浮遊する根なき植物、ウスネオイデス的であると言える。

しかし、正覚講が外部を持たないわけではない。たとえ正覚講が観念的な、実際的な、瞬間的な場であったとしても、場が想定される以上、必然的に外部が想定される。だからこそ、ここでも正覚講が政治的であると言い得るのである。それはアンリ・ルフェーヴェルが〈空間〉とよんだもの、投企が目的化したものそのものなのであり、近代建築への批判ーー疎外論理と細分化への批判ーーを体現しうるのである。