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すべて真実

死にたいのなら死ねばよい

 

 

ラカン派の精神分析では、しばしば「死すべき運命」なるものが言及される。主体が自らの欲望のうちに死ぬということ、精神分析の倫理にかかわる、「自らの欲望のうえで譲らない」という論理。

実際、ラカンに関して言えば自殺肯定派だからな。治る見込みもなさそうな奴のカルテで、うまく自殺で片付くといいのだが…なんてことさえ言っているからね。

 

しかし、まあたしかに死ぬのは簡単なんだよな。だから、安吾の言ってることを、ラカン派の言っていることと同じぐらい支持できるよ。ワタシは。

 

死ぬ、とか、自殺、とか、くだらぬことだ。負けたから、死ぬのである。勝てば、死にはせぬ。死の勝利、そんなバカな論理を信じるのは、オタスケじいさんの虫きりを信じるよりも阿呆らしい。  

人間は生きることが、全部である。死ねば、なくなる。名声だの、芸術は長し、バカバカしい。私は、ユーレイはキライだよ。死んでも、生きてるなんて、そんなユーレイはキライだよ。  

生きることだけが、大事である、ということ。たったこれだけのことが、わかっていない。本当は、分るとか、分らんという問題じゃない。生きるか、死ぬか、二つしか、ありやせぬ。おまけに、死ぬ方は、たゞなくなるだけで、何もないだけのことじゃないか。生きてみせ、やりぬいてみせ、戦いぬいてみなければならぬ。いつでも、死ねる。そんな、つまらんことをやるな。いつでも出来ることなんか、やるもんじゃないよ。

 

坂口安吾「不良少年とキリスト」. 

 

然し、生きていると、疲れるね。かく言う私も、時に、無に帰そうと思う時が、あるですよ。戦いぬく、言うは易く、疲れるね。然し、度胸は、きめている。是が非でも、生きる時間を、生きぬくよ。そして、戦うよ。決して、負けぬ。負けぬとは、戦う、ということです。それ以外に、勝負など、ありやせぬ。戦っていれば、負けないのです。決して、勝てないのです。人間は、決して、勝ちません。たゞ、負けないのだ。  

勝とうなんて、思っちゃ、いけない。勝てる筈が、ないじゃないか。誰に、何者に、勝つつもりなんだ。  時間というものを、無限と見ては、いけないのである。そんな大ゲサな、子供の夢みたいなことを、本気に考えてはいけない。時間というものは、自分が生れてから、死ぬまでの間です。

 

坂口安吾「不良少年とキリスト」.

 

 

まあ、次の言葉を信じたって両立はする。死への意志で死を圧倒するんだから。それは「生」で「死」を圧倒するエネルギーと同じだろう。草間彌生だってそうだ。

 

 

ガルルがやられたときのやうに。   

こいつは木にまきついておれを圧しつぶすのだ。   

そしたらおれはぐちゃぐちゃになるのだ。   

フンそいつがなんだ。   

死んだら死んだで生きてゆくのだ。   

おれの死際に君たちの万歳コーラスがきこえるように。   

ドシドシガンガン歌ってくれ。   

しみったれいはなかったおれじゃないか。

 

草野心平「ヤマカガシの腹の中から仲間に告げるゲリゲの言葉」.

 

 

草間彌生はたしかに芸術によって自らの病いをなおしてゆくのだとも語っている。だが、支離滅裂な全体のなかに閃光のようなパッセージをちりばめた処女小説『マンハッタン自殺未遂常習犯』(78年)では、さらに、「病いは死よりも強いというのが、結論であった」という恐るべき洞察が語られている。そして、作者は、「自殺未遂を何回もして、病いをおどろかしてやりたいの」と、いたずらっぽく付け加えるのだ。病いと同一化し(晩年のラカンが、症候を解消するのではなく、症候と同一化することを最終目標として、それを<sinthome>という古語で表現したことが思い出される)、病いを芸術に転化することで、死に打ち克つ。

 

浅田彰草間彌生の勝利」.