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すべて真実

美しいままにして身罷ることについて

 

 

美しいものを美しいままで終らせたいということは一般的な心情の一つのようだ。十数年前だかに童貞処女のまま愛の一生を終らせようと大磯のどこかで心中した学生と娘があったが世人の同情は大きかったし、私自身も、数年前に私と極めて親しかった姪の一人が二十一の年に自殺したとき、美しいうちに死んでくれて良かったような気がした。一見清楚な娘であったが、壊れそうな危なさがあり真逆様に地獄へ堕おちる不安を感じさせるところがあって、その一生を正視するに堪えないような気がしていたからであった。

 

坂口安吾堕落論』.

 

 

堕落論』の考察は、「美しいものを美しいままに終わらせる」ことにはじまる。しかし、それはいわゆる「美しい」=「若い」という構図のもとに語られているのではない。つまり、若いうちにーー美しいままにーー死ぬことの美徳を語っているのではない。そんな美徳は安吾の中にない。なぜなら、先の引用文の直前、安吾は四十七士の切腹について言及をしているからだ。くわえてーーあまり言及されないがーー、安吾が引いている心中事件とは恐らく坂田山心中事件を指していることからも、ここで言われている美しさとは、若さや若さゆえの美貌といった外見的なものではなく、精神性の高いものであると考えられねばなるまい。より厳密に言うのであれば、安吾が危惧するのはそういう美しい者たちが「生き恥を晒す」ことであり、いずれにせよ外見的なはなしではない。むしろそれは社会性と堅く結ばれた価値観である。

そしてその価値観は、坂田山心中にしろ姪の自殺にしろ、安吾の言っている美しさが伝統的な「純潔」の観念に近しい点は見過ごされがちだ。つまり、坂田山のふたりは処女性を保ったままに死んだ点で世間の同情を買ったのだしーーそもそも2人が接近したのは教会であるーー、その文脈に沿って語られる姪の美しさも、処女性を全うして死んだことになりうる。したがって安吾の価値観は、意外にも古典的と言わざるを得ない。

 

しかし、美しいまま(若いうちに)身罷ろうという夢を抱く者は少なくないようだ。老いれば醜く、死ねば不浄なので、今のうちに死にたいという。ナルシシズムが正常に動いているうちに死んでおきたいというわけだ。それは何とも「ロマンティック」な夢だが、明らかに矛盾を抱えている。

なぜなら「死ぬ」とは進んで「死体になる」という意味を与えざるを得ない営みなのだからーーそれがすべてではないにせよーー、意識や肉体といった「若さ」という価値を成立させている諸条件を抜本的に棄捨するものであるのは言うまでもない。また、そうであるなら、たとえ「生き続ける」ことが醜さに近づいていく行為であるにせよ、即時に彼の美しさが捨てられない点において、むしろ存命が「美しさ」を保つ営みであると言う可能性は否定できない。くわえるなら、既に述べたように、せいぜい「美しいままに死にたい」とは、ナルシシズムが機能を十全に果たしているーーというか、異常なまでに機能しているーー段階で死にたいという話なので、このナルシシズムの強度が変化するという予測は簡単にできる。なぜなら、フロイトの指摘したように、ナルシシズムをはじめとする欲望は、波のように時によってその力を増減させるからである。したがって、「美しいままに死ぬ」こととはアポリアな問題である。

「美しいままに死にたい」という夢を、僕自身は見たことがない。見たいと思ったこともない。ただ、見ているひとが近くにはいる。ネットの世界でもよく見かけるものだ。彼らに感動を覚えることなど微塵もないけれど、それでも、このアポリアを覆してまで死んだ人間を美しいと思うことは、きっとあるだろう。欲望を抱いている時点では、それはせいぜい標準的な倒錯でしかない。あるいは、辛い夜を耐え忍ぶための、応急処置だろう。

 

自殺を想うことは強い慰謝剤である。これによって数々の悪夜が楽に過ごせる。

 

ニーチェ善悪の彼岸」.

 

 

 

もっとも、基本的に僕は誰しもが各々のやりたいように生き、幸福に生きていられることを第一に望む人間である。逆説的な言い方だが、だからこそ尊厳を保って身罷る人間に対して、悲哀することもあるだろうが、窮極的にはきっと肯定できるのだ。他者の幸福を願わない人間が、他者の死に優しくあることが可能だろうか。