aphanisis

すべて真実

オカノクン

 

良くも悪くも、込み入った話を対等にできる友人は僕の中で1人しかいない。しかし、「対等」という価値はあくまで僕の側からの話であり、彼からすれば僕なぞ到底「凡庸」な人間の1人なはずだ。そして「対等」という語が使われれば当然ながらやや否定的なニュアンスが纏わりつくものだけれど、そこにシニカルな意図はない。

しかし、きっと彼が最も気にするのは「友人」という名称ーー位置にちがいない。悪びれず、当然至極のように彼に対してこの語を選択したけれど、正直、ぼくもオカノクンを友人と言っていいのかわからない。親しいようで遠いのは共犯関係的な営み故なのだろうが、それでも、おそらく、どちらかといえば僕の不恰好で曖昧な態度が、彼のなかの僕の位置を不安定なものにしてるとも思われるのだが、なんであれ、良くも悪くも、近い世代で芯から面白いと言えるのは、僕にとって彼しかいない。恋人を例外にすればね。

 

さて、前回に古井由吉の話が出たから今回も出すけれど、オカノクンと古井由吉の話をしたのは、僕の記憶が精確であれば計3回。一度は大正大学側の喫茶店で。一度は呑み屋で。一度は足利の、吉増剛造さんのパフォーマンスに招待された時だったと思う。

彼と古井由吉の話ができたのは、たまたま僕の周りで古井由吉を読んでいたのは彼しかいなかったという理由だけなのだけれど、『杳子』『仮往生伝試文』がつまらないという点、ならびに、その代わりに『妻隠』こそ逸品だという点で意見が一致したのは何だか嬉しかった。

妻隠』にただよう緊張感は凄い。「変な匂い」がすると言って熱病に臥している布団の先で戸棚を片付ける妻の後ろつきを観察する時、あるいは、奇怪な老人に声をかけられる場面……。随所に溢れる不穏な陰は、実のところ『槿』以降ーー精確なところはわからないーー、みられなくなったのではないか。

特に主人公の妻が鳶職の男たちに囲まれて野外で酒を飲む場面の、あわやこの女は直ぐ後に犯されるのではないか、あるいは、若い少年と不倫に走るのではないか、という不穏な空気感はどういうことだろう。状況としては滑稽極まりないのに。

 

そんななかでオカノクンが推したのは、たしか『円陣を組む女たち』ではなかったか。『男たちの円居』を彷彿とさせる表題だけれど、この時代の作品こそ小田切秀雄がみたTHE☆「内向の世代」のはずだ。

たしかオカノクンは柄谷行人が推薦してたからこれを読んでいたような気がするのだが、『男たちの円居』についてもまた、柄谷行人は「吉井由吉『男たちの円居』」という、「閉ざされた熱狂」の萌芽的論考において触れている。

もうひとつ、藝大の油画科の内覧展ーーこの時は前半ひどい空気だったのだがーーにおいて、上野公園を歩いてる時、「内向の世代は小説が下手」だと彼が言ったのは凄く腑に落ちたーー同時に、同じようなことを恋人が言っていたのを思い出したーー。ぼくも、古井由吉は決して小説が巧いとは思えなかったから、同意した。

むしろ何故かわからないけど、古井由吉はエッセイの方が巧いし面白い。とくに『山に行く心』はー ー巷では伝説的なエッセイーー『言葉の呪術』なんかより滅法垢抜けてて面白い。小説では難渋な文体を書く癖して、やたら軽妙な文で笑える。「夜の香り」の落語めいたテンションに近いーーちなみに個人的に一番好きな古井由吉の作品は「夜の香り」。それから『椋鳥』の数篇、「雨の裾」などーー。

このエッセイ集では、「北上の古き仏たち」「さて、煙草はどこだ」あたりが好きなのだけれど、恋人は若き日の古井由吉が雪の中で相撲をとる話が好きらしい。なんだか、オカノクンにも読んでもらいたい気持ちになってきた。

ちなみにこの時、「そういえば最近、大江健三郎の『性的人間』を初めて読みました」と伝えたところ、「どうだった」と尋ねられたので、「思ってた以上に性的人間だった」と返したら納得されたものだ。「そうなんだよ、想像以外に性的人間だったでしょ」

この日はその後、アメ横の安いのか高いのかわからない店で飯を食べながら、『美味しんぼ』の話や最果タヒの話なんかをした。正覚講へのアドヴァイスもくれて有り難かったし、最終的にいい感じの空気になれて安心した記憶がある。

 

なんだか、良い話になってしまったな。