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すべて真実

安吾の姦淫

 

きのうから安吾全集のサンプルをKindleに落としてツマミヨミしてるのだが、「姦淫に寄す」と題された短編をさっき読んだ。

安吾の恋愛小説ーーというより安吾の恋愛観)は、肉体からの遊離が常に決定的である。このあたりについては、たしか『戯作者文学論 平野謙へ・手紙に代えて』なんかに詳しいのだが、矢田津世子との恋愛関係に肉体がもたらされることは真実なかった。『姦淫に寄す』でも、肉体的な行為は一切登場しない。

 

しかし、驚いたね。ボクは。つぎの2つの引用部分を読んで。

 

 

「貴方のやうな方がいつと純粋に神をもとめてゐらつしやるのでせうつて、先生が仰言てゐましたわ」
 この人を食つた言葉は明らかに此の夜澄江の口から発せられたものである。しかも彼女は斯う言つたときに幾分頸を曲げて上眼づかひに彼を見上げながら、殆んど媚びるやうに微笑した。

 

坂口安吾「姦淫に寄す」.

 

 

これが如何なる純粋な心情の上になされたにせよ将又最も精神的な友誼にせよ、これは一つの姦淫であることは疑へない。但しかかる姦淫は人の世に於て最も甘美であり華麗であり幽玄なことであるかも知れない。或ひは彼女は玄二郎に少年の心と同時に少年の姦淫を読み破つたのかも知れないが、その場合には、彼の中に見出したと同じ姦淫を彼女自らも心に蔵してゐたことは言ふまでもないことだらう。

 

坂口安吾「姦淫に寄す」.

 

 

聖書研究会に参加する青年と未亡人。未亡人は青年に誘惑をけしかけるが、安吾はこれを姦淫と喝破する。しかし、この姦淫は「人の世において甘美」「華麗」「幽玄」であるかも知れず、フロイト的な意味での投射かも知れず云々と付け加える。

まず、安吾心理的な次元に姦淫を見出すことに驚いた。とにかく、安吾は肉体を嫌悪して精神を許容する作家だと思っていたから。つぎに、『女体』『恋愛論』とは明らかに異質なカタチで書かれた恋愛主題小説があったことに驚いた。

なんとも奇妙なテクストである。まるで、症例報告のようじゃあないか。

 

 

玄二郎はただ微笑をもつて答へた。彼の思念は全く杜絶えてゐたのだつた。そして彼は彼女の跫音が可憐な雌鳩のそれのやうに遠ざかるのを夢からの便りのやうに聞き終つてのち、光の下の椅子へ戻つて腰を下すと、朦瓏とした肢体の四周へ、極めて細いそして静かな冷めたさが泌みるやうに流れてくるのが分つた。彼が自分にかへつた時、彼の身体は絹糸の細い柔らかい気配となつて感じられたばかりであつた。今にも透明なものが泪となつて流れでるやうに思はれたが、併しそれは泪にもならずに、遠く深い溜息のやうなものとなり、ひつそりした夜の気配へ消えこんでいつた。それから更に静かな遠い冷めたさが河のやうな心となつて戻つてきたのだ。それは懐しい時間であつた。きびしい苛酷な孤独のもつ最も森厳な愛と懐しさと温かさ。恐らくさういふものでもあつたらうか。もはや雨はやんでゐた。残された風のみが荒れ狂ひ、広く大きな松籟 となつて彼の心になりひびいてゐた。自然の心を心にきいた切ない一夜であつたのである。やがて長々と欠伸を放つと、心安らかにねむりについた。

 

坂口安吾「姦淫に寄す」.

 

 

そして、この小説について河本英夫が言及してるらしいことにも些か驚いたーー人文系の研究者の論文もあるらしいーー。河本英夫坂口安吾推しなのは藝大の講義に出席した時から知っていたけれど、まさか『姦淫に寄す』と『風博士』を扱っていたとは……。