最近、カトリーヌ・マラブーの『抹消された快楽』の訳書が上梓されたことで、フランス思想研究の界隈がにぎわった。
筆者も刊行記念のオンライン講演会に参加し、マラブー氏本人の講演や本邦の研究者たちによる意見交換会に接した。
哲学史上、わけてもデリダのロゴス主義批判以後、陰核 Clitorisはどのように検討されるべきなのか。陰核はかねてより生殖能力がないため、ただ快楽を消費するためだけの存在としてしばしば蔑視されてきた。しかし、陰核とその快楽を否定する言論は男性優位的な価値観の上に成立しているのではないか。
しばしば今日のフェミニズムや仏教学でも話題にされる、女性の正覚について。
古典的な仏教では、女性は仏になることは赦されていない。それは解脱をめぐるヴェーダ以来の思想的特徴で、初期の経典や律典においても保持された伝統であった。
しかし、この教理は大乗経典で訣別される。法華経や薬師経では女性の解脱が積極的に説かれるし、華厳経などでは善財童子に女性が仏法を説示する様子が描かれる。
ただしーー経典によって若干の異同はあるがーー、「男性に転じることによって」女性の正覚が可能となる点については、注意されるべきである。
この議論でたびたび引用される龍女の物語では、女根、つまり陰核の男根への変容というステップが踏まれてから、初めて悟ることが可能になると言われている。この論理をもとにすればーー逆説的だがーー、正覚は男性にしか基本的に許されておらず、男性性は男根によってあらわされる。仏教において男根は男性性の記号なのだ。
この龍女の説は我が国の平安期に後白河の手で編纂された『梁塵秘抄』などにもみえ、その受容は日本の民間信仰内でも早かったかもしれない。
また、薬師経などみると女性の解脱が認められる一方で、仏陀の存在する浄土に女性は存在しないことが語られる。そしてそれは、穢れのない状態であるというかたちで言及されるのだーー『薬師琉璃光七仏本願功徳経』ーー。
そういうわけで、カトリーヌ・マラブーの仕事は仏教学とフェミニズムの議論においてもかなり効果的であると目される。それは女性の正覚をめぐる問題というより、仏教のロゴス中心主義的な側面を照らすという意味において。
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