■ph■nisis

すべて真実

補遺: 前記事 「ことばにころさせられるまえに」について

前記事について質問をいただいたので応答する。

 

まず、「ことばにころさせられるまえに」は一つのバラッドとして完成させる事が少なからず目的化されている。これは、フランソワ・ヴィヨンのよく知られた一連のバラッドを想起したことに起因する。また、巫山戯たタイトルが既にこの記事が一種の茶化しであることが暗示されている。

 

言葉が話者の代理物であるという考えは、もっぱらジャック・ラカンが彼のセミネールで示したシニフィアンの理論に依拠している。ラカンが仄めかしたのは、シニフィアンは主体の表象代理であるということだ。シニフィアンが明らかにするのは書かれた言葉ではなく、シニフィアンを生成した人物の存在のみである。

余談だけれど、ブログ名のaphanisisとは、刹那的な象徴界への参与と復活し得ない永久の死滅の享受、すなわちシニフィアンの消失を指示する語として用いられている。aphaniaisとは語られた言葉そのものなのだ。

 

言葉が嘘をつくということはなく、人が嘘をつく。

異論もあろう。筆者自身、言葉それ自体の力で言葉が嘘となり得てしまったような出来事を知っている。外的要因が折り重なって、思いもよらぬ形で言葉に救われたり死んだりした人を知っている。言葉は殆どの場合、目的や意味に囚われないか、あるいは少なくとも、目的とか意味とかが全てではないことを、常に使い手に対して示唆している。もっとも、言葉の美化が即座に使用者の罪の贖罪に結びつけられるという事態も、実際ありふれており、それだけに言葉に対してお気楽に、分別のない赤子みたいに「好き」を振り撒く人間には戦慄する。

なお、戦慄するだけで嫌悪はしない。前回の記事を読んで、切迫した様子で筆者を案じた人がいたのだけれど、怒りや呆れは然程抱いていない。

 

前記事の最たる目的は、終結部に設置されたエルザ・トリオレの引用が全てである。

「誰も私を愛さない」(トリオレ)。私のための小説を書くこと。言葉をフェティッシュの座から引き摺り落とす最善の方法。読者不在のままに。言葉を自分にだけ向けることができるのであれば。

 

私ひとりのための小説を書くとしましょう。読者ぬきの。実在しそうにない小説。私はひどく哀れな、ひどくみじめな女ですから誰かに秘密を打明けたりしません。私の所有するものは、すこぶる僅かですから、それは金輪際ほかの人と分ちあえるものではないのです。ひとかけらの食べもの、ひとひらの埃。それが私の全宇宙です。