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すべて真実

瑕をさすることで得る暗鬱とした心地良さから吐かれた溜息を誰もが「これは文学だ」と指名する時代がきたのだと仮定して

古瑕をさわり馴れた人間というものは、瑕をさすって得られる快楽が未熟さを永遠にたたえつづけるであろう性器をまさぐることによって楽しまれる快楽と、果たして同一であるか否かという問いを必ずと言ってよいほど抱くようだ。小田切秀雄は、政治的文脈から遊離し自分の古瑕をまさぐりつづける作家というものが、ある時代から擡頭してきたと述べた。「内向の」なんとかという括弧つきの存在こそそれだが、おそらくまともに読んでいる者なら彼らが決して内向に赴いてなどいないことを覚る。

 

しかし、今日街頭を見渡せば、彼方此方に居なかったはずの彼らが立っているのではないだろうか。彼らは古瑕を性器ではないと堅固に信じ(実際そうだ)、あの手この手をつかって語らうのだが、それを見た誰かが、あの人は共感を得たい、理解を受けたい、自分の問題を知ってもらいたい、そういう願望に支えられて喋っているのだ、と想定する。今日どこでだって見ることのできる光景だが、しかしいま言われた想定は、おそらく語り手においても共有されている。文字を綴る当人は、自分の行為を「わかってもらいたい」「信じてもらいたい」「受け容れてもらいたい」とかいう諸々の願望に支えられたものとして、恥じらいや罪悪感を隠しつつ語らうであろうから。

 

しかし、問題なのはその想定が実行者の側から生まれてきたものである可能性が十分に考え得るということであって、むしろそういう安易な自慰への後悔に似た感慨によって、件の行為が回収できている点で、彼らの言説は強かさを兼ね備えているのである。したがって、彼らの言説を「可哀想な」だとか「真摯な」だとかいう眼差しで、あるいは切実な問題としてとらえ切ろうと想定する連中もまた、その言説の内側にあるのだ。

 

ある意味で今日の時代に生きる彼らこそ内向の世代の人なのかも知れない。内向の世代などなかったのだから、ようやく来たわけだ。ほうら、あの子をごらんよ、古瑕をさすっているよ、血糊さえ周到にご用意してぼたぼたと垂らしているよ、滑稽なの、瑕だってこさえたのさ。性器はついてたりなかったりするものさ、でもね、古瑕は自分で用意できるものなんだ、こうしてまさぐれば深い溜息を吐くことができる、色々言葉が出てくるんだ。

 

当然のことながら、古瑕をさすることが悪しき習慣なわけでも、まさぐることによって得られる快楽が悪質であるというわけでもなく、関心を惹かせるのは次の点、すなわち、正に「内向的な」活動から洩れでる言説が、こんにち文学とか芸術とかいう顔貌をたたえながら横行していることなのだ。いやいや、即時に言いましょう、お嬢さんお坊ちゃん、これは有難いことではないか、誰しも文学者です、誰しもが作家です、誰しもが告白めいた要素と倒錯めいた要素と偽記憶とを配合すれば書けるのだから。恥ずかしがることはないよ、無名の大衆に晒したところですべては過去であるし所詮ゴタクだし嘘に充ちているのだから、文学なのだから、それを認めない方が不当でしょうに。ただ、「本当に?」という問いを持つようならかなぐり捨てることのできる強かさと、偶さか訪れる翳りに依存しなければならぬことへの馴れさえが必要ですが。

 

古井由吉の『槿』で重要なのは、登場する人物全員の記憶が曖昧であったり嘘であったりする点である。主人公の杉尾は青年時代の記憶が曖昧である。彼の友人の妹・國子は、学生時代に茂みで杉尾に犯されたという。杉尾は訝しい思いでいる。この出来事の現実性を信じていた彼女の兄であり杉尾の友人である萱島は、すでに発狂して死んでいる。件の事件に関係している友人・石山も心身を患っていて、誰も記憶が定かではない。各人の妄想や偽記憶に彩られた過去の出来事が、現在の登場人物一人一人を蝕み蔓のように絡めとっていく――そして西尾幹二が指摘するように、学生時代の萱子を茂みのうちにて犯したのは杉尾ではなく、彼女の兄であったという戦慄的な事実が絶妙な暗示で描かれる――。

この小説の文学性は、結局、ひとは古瑕をさすったところで常に誤っているという点にある。それぞれが身を守るために記憶を塗り替え、本来不透明であるべき事実を直線的な像に描き、結果として辻褄の不合の強度が高まり、混迷の闇に更に奔走していくとになる。

田切が「内向の世代」と喝破した作家が、まさに内向によって描くことの不可能性を体現していたというのは失笑ものではないか。もっとも、これは古井に限らず後藤明生だって同じことで、内向の世代などなかったという柄谷の指摘はなんら偽りではない。

 

しかし、おちおち笑っておられないのは、まさにそうした、誤りつづける彼らーー私たちと生きるーー内向の世代の人びとが、そうした誤りにさして無自覚でもないのにも関わらず、それでもなお「共感」やら「理解」やらいう抽象性の高い「反応」を求めていることなのだ。それは、そうした反応を数量的なかたちで受ける出来事自体が、既にさする――語らうという営みにおいて前提化されているためでもあろうが、文学性とまったくかけ離れた言説が文学のような顔をして歩いているのは滑稽を通り越して些か不穏でさえある。

もっとも、芸術至上主義的な人物からすれば、執筆とか自殺とかいう行為の価値が凋落したと考えたいだろうが、そんなものは幻想で、ただただ感度の甘さが横行しているだけである。

 

ここで、友人との対話のなかで生まれた、ある精神療法について想い出す。それは、神経症者に対して、医者がまったくテキトーに「名詞を与える」というものだ。患者に症候を語らせる。それを肯定するでもなく否定するでもなく、あだかも聴いているかのように聴かず、目を瞑ってうむうむと頷く。そうして、患者が語り終えて暫し考え込む素振りを見せてから、何等かの名詞を言うのだ。たとえばそう、君は「古墳」に一生を費やしなさい! またある患者に対しては、「ミジンコ」の採集に半生を捧げなさい! 「テニス」「サッカー」「水泳」「結晶」「建築」「刀剣」。なんでもいいのだ。とにかく、患者が症状の開発と維持とに向けているエネルギーを別のものへと移行させることが肝要なのだから。これは或る意味でラカン派的な発想だ。症状が欲動に準拠していると見立てているのだから。いささかマッチョになりかねないが、世代の人びとにとっての外交の契機たりうることは大いに見込まれるはずだ。

 

 

 

仕合わせな時間

 

3月14日。

2年ほど暮らした仮家を引き払うために荷物を纏める恋人の手伝いに行く。想像のとおり仕事は手付かずなところが少なくなく、翌日に控えた搬出に向けて働くことに。山崎の梅酒を抱えてきたので一二杯ほど吞んでから作業開始。

夜は前祝いを兼ねて吞み屋へ。つい1週間ほど前にも寄ったが、御店主との話が楽しかったので今回は思い切って恋人と並んでカウンターへ坐す。民俗学や長野の土地にたいへん明るい方で、仏教への関心も深いようで話に花が咲く。暖簾をはずした後も話はつづき、3月の奈良は所々で仏教儀礼に賑わっていること、善光寺五来重のこと、長野の各地を旅した詩人・田中冬二のことなどを話す。2時間弱で清酒10合。最後は田酒を燗につけてもらい鮪の酒盗が嬉しい。帰宅後は梅酒を湯で割り〆の飯をかっ喰らって寝る。

 

3月16日。

15日に無事荷物を引き払うことが出来、馴染の古書店に連絡をいれたら休業日のところを開けてくれたので恋人と参上。取り置きしてた本(フロイト、バルト)を買いに行く――実は昨晩にも来ていて恋人が鈴木牧之の『北越雪譜』を買った――。

この日、自分が大正大学で仏教を専攻している人間であることを御店主に伝えたら、実は戦後間もない頃の庚申塚に印刷所をもっていて、吉岡義豊(文学部教授、文学部部長)の著作を手がけたこともあったという。大学にも訪れたこともあり、そんな思わぬ縁に御店主の眼も輝いて、仏教書のあれこれ、自分の研究テーマ、当時の大学周辺の古書店のこと、近隣の寺や信仰、店秘蔵の古書の話に沸く。また、聞けば生前の埴谷雄高の宅に行っていたこともあったらしく、思わず胸が熱くなる。暖かい声で面白い話をたくさんお伺いできた。軽井沢にある、加賀乙彦氏が館長を勤める高原文庫の誘いをお受けする。夏の予定ができた。

バイト先に向かうバスのなかでパンを食みながら『文士の肖像』を捲る。途中からバルトに切り替え、「オイディプース」と名づけられた章を読む。

 

 

「父」の死は文学から多くの快楽を奪うだろう。「父」がいなければ、物語を語っても何になろう。物語はすべてオイディプースに帰着するのではないだろうか。物語るとは、常に、起源を求め、「掟」との紛争を語り、愛と憎しみの弁証法に入ることではなかろうか。今日、オイディプースと物語が同時に揺らでいる。もう愛さない。もう恐れない。もう語らない。

 

ロラン・バルト「オイディプース」『テクストの快楽』.

 

 

 

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ちなみに、わたしの手許には埴谷雄高の『死霊』定本全5章刊行を記念した「作家の世界 埴谷雄高」(番町書房)があり、埴谷雄高の写真が少なからずある。『畏怖する人間』に収まることになる柄谷行人の「夢の呪縛」も載っている。

おそらく御店主は、この庭のある自宅を訪ねているのだろう。

 

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自宅庭にて.

 

 

 

 

 

 

安吾の姦淫

 

きのうから安吾全集のサンプルをKindleに落としてツマミヨミしてるのだが、「姦淫に寄す」と題された短編をさっき読んだ。

安吾の恋愛小説ーーというより安吾の恋愛観)は、肉体からの遊離が常に決定的である。このあたりについては、たしか『戯作者文学論 平野謙へ・手紙に代えて』なんかに詳しいのだが、矢田津世子との恋愛関係に肉体がもたらされることは真実なかった。『姦淫に寄す』でも、肉体的な行為は一切登場しない。

 

しかし、驚いたね。ボクは。つぎの2つの引用部分を読んで。

 

 

「貴方のやうな方がいつと純粋に神をもとめてゐらつしやるのでせうつて、先生が仰言てゐましたわ」
 この人を食つた言葉は明らかに此の夜澄江の口から発せられたものである。しかも彼女は斯う言つたときに幾分頸を曲げて上眼づかひに彼を見上げながら、殆んど媚びるやうに微笑した。

 

坂口安吾「姦淫に寄す」.

 

 

これが如何なる純粋な心情の上になされたにせよ将又最も精神的な友誼にせよ、これは一つの姦淫であることは疑へない。但しかかる姦淫は人の世に於て最も甘美であり華麗であり幽玄なことであるかも知れない。或ひは彼女は玄二郎に少年の心と同時に少年の姦淫を読み破つたのかも知れないが、その場合には、彼の中に見出したと同じ姦淫を彼女自らも心に蔵してゐたことは言ふまでもないことだらう。

 

坂口安吾「姦淫に寄す」.

 

 

聖書研究会に参加する青年と未亡人。未亡人は青年に誘惑をけしかけるが、安吾はこれを姦淫と喝破する。しかし、この姦淫は「人の世において甘美」「華麗」「幽玄」であるかも知れず、フロイト的な意味での投射かも知れず云々と付け加える。

まず、安吾心理的な次元に姦淫を見出すことに驚いた。とにかく、安吾は肉体を嫌悪して精神を許容する作家だと思っていたから。つぎに、『女体』『恋愛論』とは明らかに異質なカタチで書かれた恋愛主題小説があったことに驚いた。

なんとも奇妙なテクストである。まるで、症例報告のようじゃあないか。

 

 

玄二郎はただ微笑をもつて答へた。彼の思念は全く杜絶えてゐたのだつた。そして彼は彼女の跫音が可憐な雌鳩のそれのやうに遠ざかるのを夢からの便りのやうに聞き終つてのち、光の下の椅子へ戻つて腰を下すと、朦瓏とした肢体の四周へ、極めて細いそして静かな冷めたさが泌みるやうに流れてくるのが分つた。彼が自分にかへつた時、彼の身体は絹糸の細い柔らかい気配となつて感じられたばかりであつた。今にも透明なものが泪となつて流れでるやうに思はれたが、併しそれは泪にもならずに、遠く深い溜息のやうなものとなり、ひつそりした夜の気配へ消えこんでいつた。それから更に静かな遠い冷めたさが河のやうな心となつて戻つてきたのだ。それは懐しい時間であつた。きびしい苛酷な孤独のもつ最も森厳な愛と懐しさと温かさ。恐らくさういふものでもあつたらうか。もはや雨はやんでゐた。残された風のみが荒れ狂ひ、広く大きな松籟 となつて彼の心になりひびいてゐた。自然の心を心にきいた切ない一夜であつたのである。やがて長々と欠伸を放つと、心安らかにねむりについた。

 

坂口安吾「姦淫に寄す」.

 

 

そして、この小説について河本英夫が言及してるらしいことにも些か驚いたーー人文系の研究者の論文もあるらしいーー。河本英夫坂口安吾推しなのは藝大の講義に出席した時から知っていたけれど、まさか『姦淫に寄す』と『風博士』を扱っていたとは……。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

いやあ

ここんところ閲覧者数が日によってまちまちだったーー10ぐらいのこともあれば50ぐらいのこともあったーーんだけど、きのう今日は立て続けに100を超えたな。12週間ぶりのことだ。

自選記事は下記だな。新しいもの(2週間ほど前)から古いものへと。

 

 

 

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