「人生のフルコース」と「究極のメニュー」:『トリコ』

 

世界中で美食が流行する「グルメ時代」では、伝説の食材を調達するプロ「美食屋」たちが活躍していた。中でもカリスマと呼ばれる美食屋が、主人公のトリコ。彼は入手困難と言われる食材を次々に手に入れ、幻の食材「GOD」の調達と、「人生のフルコース」の完成を目指す。

漫画ぺディア

 

何となく『トリコ』を読みはじめたところ、かなり早い段階で、物語の構造に『美味しんぼ』との類似を感じた。最大の理由は、『美味しんぼ』が複数の料理からなる、「究極のメニュー」という一つの体系の完成を目指そうとするのと同様、『トリコ』もまた、「人生のフルコース」と呼ばれる究極的な料理の体系の完成を目指すところにある。
また、『トリコ』を読み進めるうち、これはむしろ『美味しんぼ』へのある種の批判ーーといっても、島袋光年氏が意識的に『美味しんぼ』批判をしているとは勿論思わないのだがーー、場合によっては超克の要素をいくつかの点で含むものである、という考えを持つようになった。

今も考え中につき、未整理なところも多々あるのだけれど、発展段階の記録として、一旦、纏めておきたい。

 


『美味しんぼ』とその「究極のメニュー」については、美学者の谷川渥が「味覚の距離」(『イコノクリティック:審美渉猟』出版社、2020年所収、15頁―22頁)というエッセイで批評を寄せている。話の足掛かりとして、谷川のエッセイの紹介から始めてみたい。
谷川は、グルメ・ブームにおける「味覚について語る風景」が、常に、「何がうまいか」「どれがうまいか」という問いのもとになされていると指摘し、「あの有名なウンチク漫画『美味しんぼ』」(16頁)を例にとる。
谷川が『美味しんぼ』に対して寄せる批評は鮮やかである。すなわち「どのエピソードにおいても味覚がほとんどつねに一点個別主義レヴェルで問題にされ、しかもそれが最終的に素材そのものへの問題へと還元されてしまうという事実に関しては、いささか議論の余地があるといわなければならないだろう」(16頁)。
山岡士郎と海原雄山が「卵を使った前菜」で争い、海原の「卵の黄身の味噌漬け」が勝利を収めた時、その滋味の秘訣が大豆と自然鶏卵の初卵にある、という帰結に対して、谷川ははぐらかされたようだと言う。

こうした考えは、自然鶏卵の初卵をそのまま飲むことへの称揚へと論理的に帰着するほかはないように思われるからだ。しかも、実は、自然鶏卵は、養鶏であるかぎり、すでに自然ではない。素材が良いにこしたことはないだろう。しかし、ここで根拠となる自然がそもそも文化概念にほかならないことは忘れられるべきではあるまい。

谷川渥「味覚の距離」(前掲書『イコノクリティック:審美渉猟』所収)16頁―17頁。


谷川はつぎに、料理が本来的に人工的な営みであって、自然から距離を設ける営為であると指摘する。ゆえに、距離化の結果である料理をその素材のレヴェルに還元して=距離を無効化して評価しようというのは、料理そのものへの内在的な否定に繋がりかねず、そもそも料理を味わうとは、本来的に自然との距離の取り方を味わうことではないか、と指摘する。

後半で再び取り上げることになるが、美感は個々人によって差異があるという特性が、『美味しんぼ』においてはかなり度外視されているのも忘れてはなるまい。カントを呼ばなくとも、味わいの享受ーー知覚される味の種類やその強度、感触、好み――が、個々人によって千差万別であることは誰もが知っている。しかも、谷川も指摘するように、料理は「どこでいつ誰とどんなふうに食べるかということと切り離しては考えられない」(18頁)。

なるほど、だからこそ『美味しんぼ』は「究極のメニュー」の決定に際して、「料理対決」という工夫を導入したのかも知れない。料理の好き好きは人それぞれ。しかし、それをそのまま引き受けると「究極のメニュー」は完成しない。そこで、「至高のメニュー」の完成を求める海原雄山らを登場させ、有識者達に「どちらが美味いか」を選ばせる。だが、谷川が言うように、素材の持ち味を活かすというなら、「海原雄山も山岡士郎も同じ大豆と同じ卵を用いるところから始めるべきであった」(17頁)。


『トリコ』の「人生のフルコース」は、「究極のメニュー」を彷彿とさせる。フルコースのメニューが、回の進行と共に着実に完成の途を辿っていることには、実は、少なからず感心した。無論、『トリコ』と『美味しんぼ』の間には、決定的な相違がある。『トリコ』における食材は、その全てが空想の産物なのである。巧妙なことに、作者は、読者からの応募という手段を通じ、ほぼ毎回、無数の新食材を登場させる。もっとも、それだからといって、読者は作品に置いてけぼりにされることはない。架空の食材ではあっても、料理は現実的なメニューばかりだからであるーーポップコーン、コーラ、ハンバーガー、ステーキ、天麩羅、そうめんーー。

空想の食材に依拠する『トリコ』には、たしかに『美味しんぼ』的なウンチクは不在である。ただ、「人生のフルコース」なる究極的な料理の体系を設計する際には、有用な工夫だったと思う。作者は、食材の味も料理の味も、個々人によって千差万別であることを、よく理解しているはずである。そこで、漫画的な要素として、空想の食材を導入したのであろう。作者は何らかの料理を登場させるにあたって、相応しい食材を現実的な世界から選定する苦労と、やがて突き当たるであろう様々のアポリアを回避できるのである。

『トリコ』の巧妙さは、物語の中心に食材の調達者・評論家だけでなく、常に調理師を配置したことである。確かに、山岡も海原も、食材の調達、調理、そして評価に長けている。天才的と言ってもいい。しかし、それゆえにしばしば一点集中的な権力構造が形成されてしまう。
一方、『トリコ』には小松という調理師がいて、研師メルクのような職人(しかも、男装する女性)もいる。小松はトリコに意見をするし、メルクは小松に挑戦する。料理が自然から距離をとる営為であることを『トリコ』は心得ているが、料理が複雑な文脈のうえに成立していることもまた心得ている。

興味深いことに、『トリコ』は、「何が一番か」「誰もが認める味をもつ食材は何か」には強い関心を示しておらず、むしろ、「自分のコースメニューに相応しい食材・料理は何か」を重んじる。個々人と料理との結びつきが、客観性を凌駕していると言ってもよい――〈適合食材〉〈グルメ細胞〉という要素も、それと関係しているように思われる――。「人生のフルコース」が、グルメハンター1人1人が備えるものとして描かれるのも、そうした理由からである。
『美味しんぼ』を引き合いに出せば、件の料理対決における「どちらが美味いか」の決着には、常に審判が伴う。しかもそれは、共通感覚的な審議であり、権威が参与する倒錯的な裁判であるーーとはいえ、それが読み物としての快楽を与えることについては否定しないーー。
だが、『トリコ』は、その手の強要を決して行わない。「美食會」との闘いが示唆するように、トリコたちは食材の希少性は重んじるものの、権威が食材を独占にすること、束縛することを良しとしない。『トリコ』の描く徹底的な拒絶と闘争は、概念的な次元においても繰り広げられている。

食べる口と歌う口:映画『ちいかわ 人魚の島のひみつ』

 

社会学者のミッシェル・セールは、「味わう舌/しゃべる舌」という対立を論じたが、映画『ちいかわ 人魚の島のひみつ』は、「食べる口/歌う口」の対比を描く。

 

映画『ちいかわ 人魚の島のひみつ』

映画『ちいかわ 人魚の島のひみつ』

 

“食べる”という行為は、映画『ちいかわ』の全編を貫く要素のひとつである。

ストーリーの動機にあたる島への渡航の決断には、「実質無料の食事」という報酬が深く関与している――ちなみに、映画版では討伐の案内状を銜えた鳥が空を飛翔する描写にはじまるが、漫画版においては、物語はちいかわとハチワレが林檎を齧る描写にはじまる――。島へ渡った主要キャラクターたちは、島民らの歓待を受けて飲み食いに耽るのであるが、後に、セイレーン討伐の相談を持ち掛けられる。島民を襲うセイレーンは、常に行動を共にしていた人魚の一体が、島民に食べられたことに対する報復であると主張する。確かに、島民ヒトハは人魚を撲殺して、煮付けに調理した遺骸をフタバに与えていた。だが、セイレーン自身は、実際に人魚が食べられた場面を見たわけでもなければ、食べられたことを支持する確証を何一つ得ているわけでもない――拉致された際に剥がれた鱗は発見しているが、それがセイレーンの推測を支持する積極的な理由とはならないし、実際、セイレーンは犯人が誰か分からないからこそ手当たり次第に島民を襲っているのである――。したがって、セイレーンの行動には論理性も妥当性もない。「人魚は島民の誰かに食べられた」。セイレーンの信念は、その凡ゆる行動と突き合わせてみても、殆ど狂気的であるといってよい(これについては後述する)。

一連の描写を通じて、鑑賞者は、食べるという行為の醜さ、食べるという行為の後ろめたさ、そして、食べるという行為におけるタブーの側面を目の当たりにする。まるで、食べることは罪であるかのようだ――皮肉なことに、疲弊したちいかわが果実で喉を潤し、島二郎の振る舞う貝スープに空腹を満たした時、鑑賞者もまた、思わず果物の果汁の甘味や貝の出汁の旨みを想像したことだろう。


ちいかわ達の口は、貪婪で、醜悪で、滑稽な「食べる口」である。では、セイレーンと人魚の口はどうであろうか。 彼ら――三人称代名詞としての「彼」――も貪婪な「食べる口」を備えている。しかし、その口はまた「歌う口」でもある。歌う口は成長の恩恵をもたらす。彼らの口は――協和音であれ、不協和音であれ――重厚なシンフォニア sinfonia を生む。その歌声はまた、土壌に眠る穀物を眠りから醒まし、異様なまでの生長を促す。知性なき植物は、あたかも知を与えられたかのように這い、畝り、踊る。なるほど、ちいかわ達も歌うことはできる。しかし、彼らの歌が、何を生もう。彼らは物質的なモノを生み出すことはできない。彼らの歌は、センチメンタルな気分漂う仮初の共感を生むに過ぎない。それは一時的な効果である。ちいかわ達の口が際限なき「消費する口」――食べる口、喋る口、嘆く口、歌をうたう口――であるのに対し、セイレーンの口は「生産する口」という側面をもつ。


食べるという罪。この些か神話的な主題は、作品中、しばしば「食べさせる罪」という変奏をもって展開する。この「食べさせる」は、既述した様々の「食べる」行為における主体の位置の、単なる移動ではない。強制の要素を多分に含んでいる。
島民はセイレーンに供物として食料を捧げた。一緒に観賞した方が、「島民はセイレーン達に肉を与えた」と言ったのだけれど、この指摘は正しい。少なくとも、批評性に富んだヒントだと思う。セイレーン達と島民をめぐる、食に纏わる罪の始まりは、魚介類的怪物であるセイレーンらに、島民たちが陸の肉を食べさせたことにある。セイレーンは見返りとして穀物を育て、島民に食べさせる。恩恵として与えられた穀物であるが、消費的な島民は、それをちいかわ達への報酬品〔討伐の贈答品の土産物〕として食べさせようとする――神秘が創造した生産物は消費の文脈に還元される――。セイレーンを激昂させた動機は、人魚を食べられたこと〔とセイレーンは推察している事態〕である。だが、より厳密に状況を述べるのであれば、フタバは己の意思で人魚を食べたのではない。ヒトハが人魚を食べさせたのである。そして、永遠のいのちに恐れをなしたフタバは、ヒトハにも同じ運命を辿るよう強要し、例の煮付けを食べさせる――人魚を殺害する際、ヒトハはしるこサンドを食べさせて誘い出したことも、忘れてはなるまい――。セイレーンの討伐に加わる島二郎は飲食を提供する〔食べさせる〕存在であり、セイレーンの討伐は、激辛カレーを食べさせることで成功する。


食べる/食べさせるという奇妙な円環。だが、この罪の円環から脱した者達もいる。彼らは、最早、食べるという行為を必要とせず、食べることをしなくとも生き延びられる者たち、即ち、永遠のいのちを有する者たちである。
永遠のいのちを味わう者の口は、「食べる口」から何になるのだろう。海底の闇に揺蕩う檻に幽閉されて、食べる口が不要となった彼らは、ひょっとしたら禁忌を犯した愚行を互いに罵り合う「しゃべる口」となるかもしれないが、或いは、歌い始めるかもしれない。孤独を慰撫するために。
セイレーンは言っていた。罪人には「永遠のいのちを味わってもらう」と。彼は永遠のいのちの耐え難い苦味を知っていたのかも知れない――それだからこそ、彼は共に歌う者を必要としていて、たった一体ではあるけれども、人魚が殺害されたことに狂気的なまでに憤慨したのかも知れない――。しかし、投獄された罪人達、ヒトハとフタバの歌に耳を傾ける者はいないだろうし、彼らの歌が何かを生むということもない。永遠のいのちを得た彼らの口だけは、死んでいるのである。

 


 

『ちいかわ』には神話的な要素が散りばめられているので、そうした解釈とは異なる視点で――とはいえ、本文内にも触れたように、「食べる」は多分に神話的・文化人類学的な要素ではあるものの――読めないか反芻してみた。「人魚の島のひみつ」の“ひみつ”とは、何だったのだろう。“人魚の島”という言葉の意図も。これは大きな疑問なのだけれど、真正面から取り組むノートにはならなかった。

「消費する口/生産する口」という構図、あるいは口唇への執拗な執着は、フロイト的なリビドーの経済学性から深追いできそうだし、食べることのタブーもバタイユやレヴィ=ストロースの切り口から検討できる余地もある気がするのだけれど、すぐには纏まらなそうだったので触れなかった。最近、『トリコ』について考えているので、それも影響した切り口になったのだと思う。

 

※一緒に鑑賞した方が査読をしてくださったので、指摘に基づき刪定した(2026年8月13日20時50分)。

 

聖アグネスとしてのクラリスほか:『羊たちの沈黙』

 

『羊たちの沈黙』

『羊たちの沈黙』(原題『The Silence of the Lambs』)


猟奇犯を追うクラリス・スターリングは、乙女達の加護者のようである。
他方で、クラリス自身、幼少期の仔羊をめぐるトラウマ(加工される仔羊の叫び)に傷つく受苦者でもある。

この二面性は、ハンニバル・レクターが描いた肖像画を通じて明瞭に示されている。
劇中、一瞬、とまでは言わないものの、僅かなカットの間で示されるその肖像画は、聖アグネスの図像を想起させる――どこか『ラ・ジョコンダ』も髣髴とさせる――。ちなみに、当該のスケッチは数年前に Julien’s Auctions に出品されたので、いま参考までにオークション・サイト所載の画像も引用する。

 

レクターの描く肖像画

レクターの描いた肖像画

Julien’s Auctions

レクターの描いた肖像画(Julien’s Auctions)
Julien’s Auctions の紹介ページには、「レクターがクラリスを、子羊にとっての天使のような「聖母マリア」として描いている」とある。
これと同様、クラリスと聖母マリアを重ねる批評は(インターネット上に)散見するが、描かれたクラリスのイメージはマリアではなく、むしろ聖アグネスと解釈すべきであろう。それは、図像的な類似のみならず、聖人アグネスの神性――性暴力や夫婦の悲劇から信者を守護する殉教者という面からも、そのように言える。
 

聖アグネス像(16世紀イタリア)

聖アグネス像(16世紀イタリア)
 
 

『黄金伝説』によれば、アグネスは291年のキリスト教徒の出自である。304年1月21日に、ローマ皇帝ディオクレティアヌスの統治下において13歳で殉教している。
アグネスを巡っては、次のような逸話もある。
ある時、ローマ長官センプロニウスは自身の息子との結婚を望んだが、「私はもう神と結婚している」とアグネスは拒絶する。センプロニウスは、彼女がキリスト教徒であると告発し、異教の女神  Vesta  に供物を捧げるか、娼館に行くかをアグネスへ迫る。アグネスなその要求を拒否すると、衣服は剥ぎ取られ、一糸まとわぬ姿で娼館へ連行されてしまう。しかし、神のとりなしによって、彼女の頭髪は足を覆うまで成長し、その裸体を包んだ。アグネスが娼館に入ると神の御使いが待っており、男たちはアグネスを見ることもできなれば、彼女に近づくこともできなかった。

 

アンドレア・デル・サルト『聖アグネスの祭壇画』(ピサ大教会蔵)

アンドレア・デル・サルト
『聖アグネスの祭壇画』(ピサ大教会蔵)
 
 

『ラム』

余談だが、このモティーフは映画『ラム』にも引用されている。

 

性暴力から信者を守護する殉教者――殊に女性を加護するというアグネスの働きは、若い女の生肌を引き剥ぐ猟奇犯から、現在の拉致者や将来の被害者を護るクラリスの姿と重なる――背景の荒野に佇む6本の十字架は、殺人犯の凶行に遭った6人の少女を暗示する(もっとも、6人目はクラリスが救出する)――。
裸体のアグネスに注がれた好奇、奇異、そして欲望の眼差しは、クラリスが至る所で晒されてきた眼差しと連関している――田舎時代、クラリスは多くの男たちの眼差しに晒されてきたであろうし、現在においても、FBI の上司・同僚、精神科医、地方の保安官、犯罪者たちは彼女に眼差しの光線を向ける。

アグネスは神のとりなしという神秘によって眼差しから守られ、性暴力の被害者を守る聖人となった。クラリスに神秘的な恩恵が与えられる機会はないが、それゆえにこそ、まさに彼女自身がアグネスのように、彼女は被害者を加護する英雄として描かれる。
――しかし、裸体を覆うものに対し、映画は些かアイロニックなイメージを呈示している。クラリスが追うバッファロー・ビルは、単に少女の生肌を剥ぐだけでなく、服飾する猟奇犯である。ここには、裸体を覆う目的という通常の機能から外れ、変容という倒錯的な機能に転じた服装品のイメージがある(関連の議論は後述)。
 
 

 
仔羊を小脇にするクラリスの姿は、犠牲者たる少女の象徴として描かれる仔羊を護っているようにも見えるが、彼女自身が内包するトラウマの根源を慰撫しているようにも見える――なお、アグネスの抱く仔羊は、殉教者としての仔羊とは歴史的には無関係である――。

つぎのことを想い出す。
今回の事件が解決したら仔羊の悲鳴はやむか、というレクターの問い。
悲鳴とは、かつてクラリスの引き取られた農場で、明け方に響く仔羊の断末魔のことである。現在時のクラリスが捕らえようとするバッファロー・ビルは、肉体の豊満な乙女を殺害し、その生肌を引き剥いで服飾する猟奇犯である。若い乙女の肌を剥いで服を手がける営みは、仔羊の毛を刈りとって服製品に加工する作業〔クラリスのトラウマ〕と共鳴している。つまり、現在時の彼女が追う事件は、過去時の彼女が負った出来事と同期している。
 

ビルの自宅のインテリア〔表〕

ビルの自宅のインテリア〔表〕

言うまでもなく、食という行為はハンニバル・シリーズ全体を貫く要素のひとつである。
『羊たちの沈黙』においては、バッファロー・ビルの家に飾られたインテリアに「食べる」ことが暗示されている。
ビル殺害の後、彼の家の窓際に設られたインテリアに、蝶が描かれているのが映される。インテリアの片面には二羽の蝶の舞う様子がみえるが、その裏側の蝶は一羽である。一羽の蝶は二羽と比べると明らかに巨大である.これは片方の一羽が他方の一羽を取り込んで、肥大化したことを暗示している。

しかし、肥大とはなにか。おそらく、強化という変容――レクターは蛾が変容の欲望だといった――の別名である。しかも、それは単純な変容ではなく、一体化を経て完全へと至る道程である。

 

ビルの自宅のインテリア〔裏〕.

ビルの自宅のインテリア〔裏〕
この文脈でいうと、『レッド・ドラゴン』〔『羊たちの沈黙』の前日譚〕で、フランシス・ダラハイトがウィリアム・ブレイクの絵を体内に“取り込んだ”のも同じ話である。

ダラハイトはカニバリストではないが、畏敬の対象であるブレイクの絵を食うことで自身の強化を図った――ウィル・グレアムは言っていた。犯罪者は神になろうとする、と――。

この点、「無礼者を食う」ことをモットーとするレクターと、ダラハイトやビルは区別されるべきなのかも知れない――レクターは『ハンニバル』(『羊たちの沈黙』の後日譚)におて、自らのカニバリズムにダンテ・アリギエーリの感動的なソネット『新生』を参照しているから――。

ちなみに、バッファロー・ビルの最初の被害者宅の壁紙の柄は蝶であり、その一部は彼の家の額面に飾られている。彼の倒錯的な趣味のシーンを観ると、ビルもまた蝶への変容を夢みているようだが、死者の喉に蛾を詰める行為も含め、最初の犠牲者の存在が契機になっているのかも知れない。

なお、この蝶・蛾は、強化と変容のイメージのみならず、自由や解放の意味でも呈示されている。
〔たとえば、脱出したレクターが残した現場の風景を思い起こすといい。〕

※2023年12月28日に別ブログで投稿した記事を大幅に加筆修正した。