種々の『百鬼夜行図』を調べているうち、鬼が走っているものがあるのを知った。
百鬼夜行というと、なにやら深夜の往来をぞろぞろ歩いている印象があったのだが、画家によっては疾走感ある妖ども姿を描き出しているようだ――ちなみに、本稿では付喪神の行道も広義の百鬼 / 夜行の一例とみなす――。
このうち、暁斎の画にかんしては「暁斎の画ゆえ」とみるべきではあろうが、それでもなお、百鬼や鬼を走らせる例は少なくない。案外、人目に触れぬ速度で跋扈しているのかもしれない。
走る鬼といえば、鬼を走らせる行事がわが国にはある。追儺や鬼やらいがそれだが、追儺は必ずしも節分に限定されるような伝統でもない。たとえばそれは修二会というかたちで法会に組み込まれている点からも明らかである。筆者が実見したのは薬師寺の薬師悔過の最終日に位置する鬼追い式だが、長谷のだだおしなんかも有名である。ただし、薬師寺の鬼追い式は――そして、おそらく長谷の追儺も――、早い速度をともなわない芸態をそなえる。他方で、おそらく追儺の鬼は実際に走ったことであろう。
追儺の起源は南北朝までさかのぼることができる。中国から渡来した宮廷行事が源流で、もともとは鬼役の人間は必ずしも必要ではなかったが、やがて鬼を演じる人間が配置されるようになった。
しかし、平安末期頃から、目に見えぬ鬼に飽き足らなくなり、それまで鬼を追う役であった方相氏が逆に鬼にみたてられ、群臣らに追い出されるようになった。追儺は、それまでは宮中で方相氏に呼応して群臣らが桃の杖、桃の弓、葦の矢で東西南北に分かれて疫鬼を駆逐していたのだが、方相氏が鬼役に変化してしまったのである。このほか、大声をあげたり、振鼓を鳴らして鬼を追い祓う風習も、12月晦日の追儺におこなわれていた。[1]
こうしてみると、画面上の物怪どもの走りはなんと清々しいことであろう。彼らの自由で気儘な走りは、厭味などでも楽しそうだ。それが演劇化された途端、無性に残酷な様相をたたえるようになるのは皮肉といったところか。
註