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すべて真実

宮沢賢治を否定する営みについて

 

テクストは物神——フェティッシュ——だ。[1]

 

筆者が専門とする研究において、どうしても対峙しなければならない作家が一人いる。宮沢賢治である。

この間、筆者は主に二人の人物の著作物に時間を割いている。ひとりは宮沢賢治で、読んでいながらふと、宮沢賢治について思ったことがあるのでメモ程度に書いておきたい。

 

まず、個人史と宮沢賢治の関係について明らかにしておく必要がある。後述する、宮沢賢治に意識的に距離をとりつつづけた経緯と直結する話題からだ。

幼少の時分、宮沢賢治との距離は極めて近かった。それは母に因縁づけられた経験で、母は高校時代から宮沢賢治の熱心な読者となり、イラストレーターの仕事をやっている時期には『銀河鉄道の夜』を主題とした、さる現代音楽家ディスコグラフィのデザインも手掛けている――その音楽家知名度はそこそこだが、近年亡くなってしまい、つい数年前に追悼コンサートが営まれた――。

他方で、父は父で小学生の筆者に宮沢賢治の童話集を買い与えるなどしており、当時、ますます宮沢賢治の存在感は高まっていった。しかし、わたしが宮沢賢治の物語を確りと読んだのは、塾の課題で『貝の火』が扱われた時が初めてであったと思う。奇妙なはなしだな、と感じる一方で、とても残酷な物語として受容していた気がする。

宮沢賢治を疎む動機は、すでにここで二つ成立している。一つは親からの勧め――それへの反撥、残酷な物語の忌避、である。そう、宮沢賢治の世界観というのは、常に残酷さに満ちているのだ。直接的な暴力描写は、明らかに幼少期のわたしに瑕をのこしているように感じる。無論、今思えば「童話」という評価は残酷さが忍ばれている点で正しいのだが。

 

したがって、とにかく高学年からは宮沢賢治を疎むようになり、他方で中高と宮沢賢治の世界観――残酷さに対してであれ、優しさに対してであれ・・・総称して愛(かな)しさとでも便宜的に名づけておこう――に心酔する同輩を横目にしながら、居心地の悪さを感じていたものだ。その疎みは次第に漠然とした嫌悪と変じていったように思う。

 

そのような過去があったのでわざわざ読むこともなかったのだが、研究に必須の対象ともなれば避けられず、夜な夜な捲ることにした――また、ここでは言及しないが、これとはほかに宮沢賢治を読むべき理由もあった――。

並行して小沢俊郎による作家研究も目を通していたのだが、そこで気づいたことがある。

小沢俊郎は筆者が読み進めていた宮沢賢治の小説における評論において、作家の素朴な農民的精神や自然への惜しみない畏敬の念、人間中心主義的な見方への皮肉を読み取っているようだったのだが、それらはいずれも宮沢賢治の作品の大前提ともいうべき思想で、わざわざ声を大きくして言うべき事柄であるのかどうか。こういった疑念を突き詰めた結果、ひとまず次のような結論に至る。即ち、宮沢賢治の農民至高主義、自然への愛情、人間への皮肉、そして愛しい世界観ともいうべき作家性―作品性は、なんら否定される余地をもたず、むしろ肯定されて然るべきような、無条件の当然さを孕んでいるのだ。ここに宮沢賢治のテクストの魔力とも呼ぶべき危なさがある。したがって、宮沢賢治を論じる際、宮沢賢治が書いた世界観を否定することの困難さが考えられ、宮沢賢治のテクストの内側に閉じこめられてしまう怖れさえある。事実、小沢俊郎は宮沢賢治のテクストを批判的に読むことができず、殆どが作品の主題の賛辞――<農民藝術>の礼賛に終始しているのだ。

無論、見方をかえればそこが宮沢賢治の弱点でもあるといえようが、宮沢賢治の誤りを思想的に炙り出すには、せいぜい小泉義之が『ドゥルーズの哲学』で示したようなアクロバティックなやり方でなければ到底成し得ないのかも知れない。

他方で、宮沢賢治の近親相姦説などがまことしやかに流通するが、結局それは宮沢賢治を否定したくとも文学の地平で宮沢賢治を否定することができなかった――思想で対決できなかった――人々が、スキャンダラスな話題を求めた結果なのかもしれない

 

冒頭に引いた言葉のすぐ後、ロラン・バルトは「制度としての作者は死んだ」[2]と口にする。しかしその後、結局のところ人は作者を欲望してしまうことを指摘する――彼がテクストにフェティッシュの価値を見出すのは、禁忌を否定してもなお、今度はその否定を否定してしまうという、バタイユの二重否定が念頭にあるのかもしれない――。

ロラン・バルトの次の文章の末尾、「読むことがたやすくなる」は、「読むことを渇望させる」と訂正させておくべきだろう。

 

物語が、お行儀よく、上品な言葉で、善意に満ちて、信心深い語調で語られていればいるほど、それをひっくり返し、汚し、裏側から読むことがたやすくなる(サドの読むセギュール夫人)。この裏返しは純粋な生産だから、立派にテクストの快楽を増す。[3]

 

 

[1] ロラン・バルト、沢崎浩平訳、『テクストの快楽』、1977、52。

[2] 前註におなじ。

[3] ロラン・バルト、沢崎浩平訳、『テクストの快楽』、1977、49。