説話を読んでいて気がついたのだが、しばしば、鬼は途端に消えるものとして描かれる。
たとえば、『古本説話集』第五十五「摩訶陀国鬼食人事」には人間を喰い殺しつづけてきた悪鬼が登場する。物語において、悪鬼はまずMagadhaに現れる。Magadhaはガンジス川中流に位置する国名で、現在のインドでいうところの北東に位置する。摩訶陀は音写語。
登場する鬼に関する情報らしい情報といえば、ただ、「人を食ふ」[1]のみ。ところが、そこに釈尊が現れると、鬼は毘舎離へと逃げる――毘舎離はVaiśālīの音写である――。釈尊が同国を遊行しに訪れると、鬼はまた「摩訶陀に行きて同じやうに人を食ふ」[2]。なるほど、釈尊の前では鬼といえども追われる身になるようだ。遊戯の慣いも逸脱する。尤も、釈尊は鬼を追いかけていたと言うべきなのかは判然としない。『タルムード』に描かれた、死神と商人の運命に似ているものとして解釈するのが妥当であろうか。
人を貪り食らう鬼を前に釈尊は嘆く。「我行なひしことは、一切衆生の苦を抜かんと思ひてこそ、芥子ばかり身を捨てぬ所なくは行ひしか。かばかりの鬼一人をだに従へぬはあさましき事也」[3]。釈尊の思惑は、生きとし生けるもの全ての教化のようだ。にもかかわらず、このように眼前の鬼一体さえ満足に教化できないのは、なんとも嘆かわしいことだ、と言う。
すると、この言歎を耳にした鬼はたちまちに「あとかたなく失せ惑ひ」[4]、しかも「永く止りにけり」[5]と言う。つまり、鬼はたちどころに消え失せ、とこしえに人を喰い殺すことを止めたわけである。本話は次のように締め括られる。「何にも仏に少しもあひまゐらすべき。永くおはします仏にえ仕うまつらぬ、心憂し」[6]。
五十一「西三条殿若君遇百鬼夜行事」にも鬼があらわれる――これについて、極めて優れた文学作品と呼ばれうるものと、筆者は密かに、堅く信じつづけている。その由縁は、正に鬼の消える場面の筆舌にある――。
西三条は神泉苑の近辺と思うと把握し易いだろう。朱雀大路の西側に位置する。西三条殿は藤原良相を指し、物語の主人公たる若君は藤原常行をいう[7]。
若君は女道楽に随分お耽りのようで、夜毎、東の京の想い人が許へと通われている。ある夜、若い舎人をひとり従えて若君が逢瀬に向かうと、東の大宮通りの方から「人二三百人ばかり火ともしてのゝしりて来」[8]。若君は人に見られてはいけないと、舎人の助言に任せて神泉苑の北門へ入り、柱の許に屈んで隠れた。
そこで明らかになるのだが、往来の向こうからやって来た二三百人の者どもは、実に百鬼の夜行だったのである。「火ともして過ぐる者ども見給へば、手三つ付きて、足一つゝ(付)きたる物(者)あり、目一つつきたる者あり。「早く鬼なりけり」と思ふに、物もおぼえずなりぬ」。[9]
若君は怖ろしい心持で構えていたことであろう。しかも、鬼は若君の様子に気がつき、気配を頼りに若君を搦めようとする。ここを起点とする物語の展開、そして一連の結末の描写、すなわち百鬼夜行が消失する場面の筆舌が素晴らしい。全文を附す。
この鬼ども、「ここに人けはひこそすれ、搦め候はん。」
と言えば、もの一人走りかゝりて来なり。今は若君、「限りぞ」と思ふに、近くも寄らで走り返りぬ。「など搦めぬぞ。」
といふなれば、
「え搦め候はぬ也」
といふ。
「など搦めざるべきぞ。確かに搦めよ。」
とて、又異鬼をゝこす。同じ事、近くも寄らず、走り返りて往ぬ。
「いかにぞ、搦めたりや。」
「え搦め候はず。」
と言へば、
「いとあやしき事申す。いでおのれ搦めん。」
と言ひて、かくをきつる物(者)走り来て、先々よりは近く来て、むげに手かけつべく来ぬ。「今は限り」と思ひてあるあひだに、また走り返りて住ぬ。
「いかにぞ。」
と問へば、
「まことにえ搦め候ふまじきなりけり。」
と言ふ。
「いかなれば。」
と、人だちたる者言ふ也。
「尊勝陀羅尼のおはします也。」
といふ声をきゝて、多くともしたる火、一度にうち消つ。東西に走り散る音して失せぬ。中々その後頭の毛ふとりて、恐ろしきこと限りなし。[10]
百鬼夜行はなぜ消えたか。若君が尊勝陀羅尼の御守を携えていたからである。本話のつづきによれば、件の陀羅尼は若君の乳母の親族である阿闍梨が与えたものであったという。しかも、若君が出歩いた日は夜行の厄日であった。夜行は陰陽道の暦が定める日。それゆえに若君は百鬼夜行に出くわしたのである。若君は帰宅後から数日の間は病に臥したものの、祈祷の甲斐もあって助かったようだ。説話の最後では御守を「具し奉るべき也」[11]と述べられる。
この物語で特に注目するべきは、まず徐々に鬼が近づいてくる、という設定ではないか。鬼は若君に歩み寄る。「捕えることができない」と言うたびに異なる鬼が近づく。一度、二度、三度目にして若君も命の終わりを感じる。徐々に徐々に、時間の経過と共に場の緊張感が昂っていく。
その緊張感が、ふっ、と消え去るのもまた作品の妙だ。尊勝陀羅尼の存在に感づいた鬼が、長たる鬼にそのことを伝える。途端、闇の大路に点々ととぼっていた松明の灯は一度に消え、暗黒の東西を無数の足音が散っていったという。永井荷風の『墨東奇譚』中、唐突な雷雨の情景の筆致を想起した。
ところで、高橋貢は解説中、この作品のリアリティは、当時の「人々は鬼や怨霊が現実にいると信じていた」[12]点にあることを示唆している。「人が殺されても警察官は来ず、鬼の難として処理された。・・・(中略)・・・当時の人々は話末の一文にあるように、恐らくお守りを身につけたことであろう」[13]
なお、ここにあげた二作は、いずれも類話が諸説話にのこる。
註
[1] 高橋貢、『全訳注 古本説話集 下巻』、講談社学術文庫、2001、92。
[2] 前注におなじ。
[3] 前注におなじ。
[4] 前注におなじ。
[5] 前注におなじ。
[6] 同書、93。
[7] 同書、44。
[8] 同書、43。
[9] 同書、46。
[10] 同書、46―47。
[11] 同書、50
[12] 同書、53。
[13] 前註におなじ。