■ph■nisis

すべて真実

ことばにころさせられるまえに

 
「言葉を語りたい」。そういう欲望を肯定視できる人間の、そのお気楽さを馬鹿にしてやりたい。
小説を読んで、小説を書いてみようと思い立つ。
詩を朗読して、詩を手がけてみようと考える。
良い出来事があったので、日記を今日からはじめてみようと決心する。
好みのブログに触発されて、会員登録まで済ませてみる。
いうまでもなく一日、一週間、一ヶ月、半年も経ってみると、継続しているものなど何ひとつとして残ってはいないのだ。
やっぱり自分には無理だったのだ、自分とあの人とは違うのだ、そんな、正直言ってくそな言い訳で全てをかたづけられているのも癪なんだが、何かを書きたいと思い立たせて文字を書かせてしまっている、語りたい物を語らせているその欲望に、僅かの怖気というか、気持ち悪ささえ感じられていないところに腹が立つ。曖昧なくせに得心できる、その便利な自己弁明に起因する不感状態。うんざりする。腐ったセンスに反吐が出るーーそのくせお前は「言葉が好きだ」と言っているーー。
 
言葉の活動というものはつねに、ある種の不快さを言葉の行為者に与えるものだ。それだけに、うっかり人の言っていることを理解してみると恐ろしい目に遭うし、それに触発されて口を開くと痛い目をみる。
言葉はいつだって偽りで、あくまで発話者の仮初の代理的存在に過ぎないのだ。言葉はいつも私を絶望させる。言葉が足りないような気がしてならなくて、言葉の不完全さを呪いたくなる。そうして、言葉に対する奇妙な責任所在の押し付けの、その倫理的な問題を、こっそりとーーしかし実際は堂々としながらーー私は等閑にする。
 
言葉が偽りとして、他者の言葉に衝き動かされる事態にどうして寛容でいられるのか。どうして感動などできるのか。言葉は今、私のなかに闖入してきている。そうして深い場所を抉ったり、そこに落ち着いたりする。言葉は不快な指。疑惑に満ちた侵入者ではないか。
 
それだというのに人々ときたら、言葉を美しいなどと褒めたたえて、賛美する。
言葉に「暴力性」とやらの価値を与える。
言葉は偽物で、まったく大したものなんかじゃないのに、ただただ不快で、本質的には気味悪い異物であるのに、あくまで、私たちが言葉をどうこうと囃したてているだけに過ぎないのに、である。
言葉で人が死ぬ、というのは言い訳で、殺したのは人間に過ぎず、その事実を言葉の力に置き換えようというのは過度な跳躍というものだ。たいていの場合、言葉に殺させられてさえ尚気がつかないが、言葉を刃だとか薬だとかいうのは、言葉をそういう風に言ってみたいだけか、せいぜいそう信じていたいだけなのだーー言葉の神話の裏側には、人間の残酷さを認めることからの逃避がある・・・ーー。
母の言葉に傷つけられた、父の言葉に死にかけた。そんなのは全部嘘っぱちで、傷つけたり殺しかけたりしたのは母であり、父である。彼らに対しての無意識の恩赦を見過ごす営みは、他者の呪いと自己の怒りの否定である。言葉の神話の裏側には、人間の残酷さの否定がある。
 
言葉は私たちに、自らを活用させるようにけしかける魔力のようなものを持っているのかも知れない。私たちは言葉を、言葉の力によって使わされているのかも知れない。しかし、そうだてしてもそれは言葉の一性格であって、価値の随伴は必然的というわけではないはずだーーとはいえ、おそらく言葉にそういう性格を担わせるのは、あくまで行為者たる人間にほかならないのだ。それは言葉がしばしば両義的となる理由が、基本的に言葉に私たちが色んな意味を与えているからに過ぎないのだーー。
 
 
言葉の神話の背後には人間の自己贖罪がある。人間が人間を殺すことへの否定があって、しかし、同時にまた自己への不信がある。それは人間が人間を救済することの疑いであって、全ては言葉に対する価値の余剰に起因する。言葉が殺すのではなく人が殺しているのだから、救いの本質は言葉ではなく人にある。
言葉は私たちの、とりあえずの代理に過ぎぬ存在であり、いつだって責任は行為者の許にある。ゆえに言葉は不快な偽物だけど、それを知らない連中の醜さと脆弱さ、お気楽な様子にこそ嫌気がさす。言葉は私のものだと、確信してよいのに、しなければならないのに。私だけの小説を書けばそれで十分なのに。
 

私ひとりのための小説を書くとしましょう。読者ぬきの。実在しそうにない小説。私はひどく哀れな、ひどくみじめな女ですから誰かに秘密を打明けたりしません。私の所有するものは、すこぶる僅かですから、それは金輪際ほかの人と分ちあえるものではないのです。ひとかけらの食べもの、ひとひらの埃。それが私の全宇宙です。それを私は震える重い水滴ごしに視つめるのです。『オペラ』。シャンデリヤ、限りない音楽。夢を見たい者は夢を見、夢を見うる者は夢を見る、というわけです。仙女の棒のようなオーケストラの指揮棒、光線のたばにつかまった蛾、歌う人形、音を出す操り人形。 一つのごく古い世界。舞台、私の幼い日の玩具、さる人にもらった贅沢な贈物。平らな箱、その舞台の奥にもうけられた背景、舞台のうえのあちらこちらには繁った葉をつないで書割となっている樹木。そして木製の台にくつつけられて立っている張子の俳優たち……。揚幕は赤く、金びかに塗った総(ふさ)がついていて、日除けのように巻き揚げられているのが、私の目に浮びます。この世の舞台という舞台は私にとってはこの舞台なのです。ポール紙と着色した布とで出来あがった一つの世界、私を魅了する会話、 一方の足を折りまげ、もう一方は伸ばして岩のうえに腰をおろしているテノール歌手、そして神聖な顫音、そして奈落の底の低音歌手。

 

エルザ・トリオレ,田村俶訳『ことばの森の狩人』.