■ph■nisis

すべて真実

メモ : 阿難について

 柄谷行人の『探求Ⅰ』を読みなおしていて、デリダ的に「語る主体」とは同時に「聴く主体」である、という一文に出遭った(このテーゼは本書の冒頭から終わりに至るまで何度か登場する)。

 そこで咄嗟に思ったのだが、阿難、というか経典の語り手って、「語」と「聴」とどっちに重心が置かれた主体であるかを限定すること、が困難だということに気がついた。

 周知のとおり、経典の多くは「如是我聞」にはじまるけど、これは阿難の台詞という建前がある(偽教においても確認できる形式である)。では、阿難は釈尊の言葉を「聴いた主体」なのか、それとも釈尊の教えを「語る主体」なのかを決めることが難しい。いやいや、見方によっては、釈尊の側にも弟子たちの前にも現れる、「居る主体」かも知れない。

 

 たまに触れる程度に、自分の中で考えるテーマのひとつとして設定をしている。