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すべて真実

廚の声かしまし

 飯のことでも書いたら、と夕飯を拵えてる最中、唐突に恋人に言われた。

「書くって、なにをだよ」

「ご飯のことですよ。きみはご飯をつくるのが、好きじゃない。だから、ブログの記事に、どうなの」

「ええ好きですとも、ほとんど毎晩、きみのところにいる間はこうしてあれこれつくっているくらいですからね」

 しかし、と手にしていた包丁を水でかるく濯ぎながら言った。

「しかし、何を書くのよ。いや、正確に言えば何を書けばいいのさ。ぼくの好きな献立ですか。得意料理についてですか」

「きみがご飯をつくるきっかけになったのは、お父さんの躾でしょ、それを書きなよ」と、彼女はまだ水を豊かに含んだ黒髪をタオルでかき撫ぜながら淡々と言う。あなたのなかで、初めからそのように考えついていたわけだ、と返すも前に、「書けば面白いんじゃない」と静かに微笑んだ。

 父の躾、というのは、ぼくは小さい時分から飯のできない男は将来難儀する、つくれれば女にも喜ばれる、という言説を叩き込まれてきた経験のことである。傍からみれば前時代的な文句だろうが、そんな思想をもつこともなく中学時代から率先的に飯をつくるようにしてきたから、今となっては思うところもない。むしろ、実際、このように恋人に有難がられているのだから、これを否定することなどできまい。

「親父の教えは2つだよ、飯と女のこと、このふたつだけ。飯は作れるようになれ。女は、嫁にするなら歳上を、恋人なら歳下を、らしい。まあ、いずれもあの男の、経験智だろうね。存在智でも、あると思うが」

「わたしは嫁に、されないんですか。恋人で終わりだっての」

「つまらないことを言わないでくれよ。第一だね、父の言葉によれば、嫁と恋人をもつ情況は両立するわけ。だから、嫁をほかにとってから、君を恋人にしたっていいんだよ」

 流しの水にさらしていた、白鬚の葱を籠から一掴みして、バターの溶けたフライパンにふりまきつつ、「まあ親父の言葉です。ぼくはしないよ」と笑って付け加える。

 葱が芳ばしい香りをはなちつつとろみはじめたので、スライスした鴨肉の燻製をくわえる。振り返ると、女は不機嫌そうな気分を放出していた。それから粗っぽい手つきでドライヤーを髪に向ける。強い風音が、油のはねる音を掻き消す。

 鴨肉に菜箸を立て、柔らかくなったことが知れたので醤油とスパイスを注いだ。勢いよく油が弾け、その上に茹であがったパスタを散らす。ほんのふたかき、さんかきすれば、具と麺がちょうどよく絡まりあう。

「私はどこに身をおけばいいの。歳上でも歳下でもないんだけど」ドライヤーを終えた彼女が口当たり鋭く壁に倚りかかって問うた。

「身が置けるだけましじゃあないの。立原道造の詩をごらんよ、「わたしの心をどこへおかう」と言っている。あれこそ、本当に悲劇だと僕は思うよ。それに、ぼくは2号も3号もつくらないよ。つくりたかったら、もうしているよ。不倫をやる奴は、昔からつづけてきた奴か、あるいは仲を冷やした奴しかしないもんでしょう。まあ、ほかにも込み入った事情をもつ人もいるだろうけど、とにかく冗談ですよ」

ならいいけど、とは言わず、無表情に鼻唄を歌っている。安心しかけたとき、ぼそりと、糞ったれが、と声がおよんだ。

「ねえ、飯も佳境なんです。よければ箸やら皿やらを置いてくれない。そして腹が余るなら、クラッカーも開けようと思うんだ。カルパッチョもさっきつくった。美味いよ、きっと」

「はあい」と恋人は足早に食卓を整え、あとは待つばかりの格好を座布団のうえでとっていた。カーテンの細い隙間の先に見える駐車場の、車から人が降りてくる様子を眺めていた。

 

「で、ブログになにを書く。親父のことを書けばいいのかい」

「いいんじゃないですか。面白い話だよね、きみの父親が言うからこそ、重みがある。だから、その息子であるあなたが書いても、それなりの重みはあると思うよ」

「うん、それはそうだね。しかし、機嫌がなおってよかった」

「あんなのね、引き摺るわけないじゃないですか」

 危ういような話であるのに、箸の動きはなめらかだった。19時を知らす、時計の電子音が玄関から及んだ。