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すべて真実

深夜の通報

「ええ、あの、かようなことで相談するのもどうかと思われたのですが、騒音でして…」

 頃は丑三つ時、ひとりの男、寒き廚に立ちて零すように言葉を垂れる。隣の住人が友人らしき人々と夜の酒に喧しく、耐えかねて岡引に相談の電話をしたのだ。

 こういうとき、人は隣人の邪悪さを呪うものだ。普段はなんのかかわりもないだけに、相手を知らないからどこまでも悪める。挨拶を交わす程度の仲でも、ひょっとしたら2度はないかも知れない。余程親しくなければ、顔を知っているだけに、どんな恐ろしい想像をしてのけるか。

 だから、人柄を知らないとなれば容赦はない。たぶん、躊躇と容赦のなさは両立しうるのではないか。はじめは躊躇っても、いちど箍がはずれればやり込むことを厭わない。徹底的に、攻撃することはできるだろう。案外こちらは、そういう態度を控えめながらも常にとっているものだ。

 男の一人暮らしだ、と恋人は言った。彼女も住人を見かけたことがあるようだ。せいぜい2度3度程度らしいが、眼鏡をかけた細身の学生らしい。声が低いのは自分にもわかった。壁一枚先を耳障りな声が話し込んでいるからだ。しかし、わたしはその話を聴いた時、自分のなかで都合よくその男の容姿を思い描き、つい、無惨なやり方で傷つく妄想をしたものだ。不快な隣人ほど奇妙な気味悪さをおぼえる存在は、ほかにあろうか。やはりわたしは、悪めば苛烈に攻撃をくわえてやろうと思うたちらしい。とはいえ、それは見知らぬ他者に向けての話というだけではなく、むしろ、よくよく知っている人間に対してそうであるのだが。たぶん、男女の別や親しみの度合いはそのとき、まったく抜きに考えられているから恐ろしいといえば恐ろしい。

 わたしは警察に通報をしている最中、チェスタトンの言葉を思い出していた。キリスト教では汝の隣人を愛し、また敵を憎むことなく愛せ、と教える。ゆえに、隣人とは敵なのだろう、と彼は言っている。(この際、宗教的意味合いにおける「隣人」がどうこうというのは敢えて忘れておこう)。

 誰がこんな糞餓鬼めいた連中を愛そうか。さっさとおっちねばあよいのだ。そう胸で呟いて、通話を切って身震いをした。