そうそう。『批評空間』「「日本精神分析」再論」(第3期第3号 2002,4月1日)の対論のなかで安藤忠雄のことをみんなでしゃっべてるのが面白くてさ、バイト中に読んでたんだけど思わず笑っちゃった。
きっかけは柄谷の次の言葉――表題にもした――「ところでなぜ安藤忠雄は人気があるんですか」。
岡崎
まさしく和様だからでしよう。ザッハリッヒカイトがいかに和様化に結びつくかという典型例ですね。坂口安吾的方法の悪い例と言ってもいいかもしれない。住吉の長屋というのがあって、これは長屋のコンテクストを生かしているように見えるけれども、同時にザッハリッヒに破壊してただのコンクリートの箱にしてしまった。そういう両義性があって、あれがいちばん面白い。長屋のコンテクストに埋め込んでしまえば、どんなものでも長屋に見えるじゃないかと言っているように感じられるけれど、他方ではそれが文字通り本当に日本的な構成の原型として見えてもくる。実際には、その後、後者の方に展開したんですね。
磯崎
大阪の庶民的な環境で、それこそ冬でもトイレに行くには外に行けというような、昔からの長屋的なものを、近代的なコンフォートの基準を外して持ち込んだところがあって、 一見ストイックに見える。そこが当った理由でしょう。
柄谷
しかし、庶民的と言っても、実際は金持ちしか住めないんじゃないの?
岡崎いまではまさに行為的空間になっていて、直島のベネッセハウスなんか、個人用のケーブル・カーがあったり、夕日が見える部屋があったり、心躍らせる迷路のような導線でできている。
浅田
あの美術館の第三期の計画では、完全に地下にして建築の外形は消す、そして、光の空間を経巡っていく導線だけがある、と。
磯崎
とにかく、建築というジャンルを超えてポピュラリティがある。司馬遼太郎みたいな感じですね。
柄谷実際、司馬遼太郎記念館も作ったし(笑)。
岡崎
しかし、その逆の建築だったら誰もついてこないですね。
浅田だから、そこに磯崎さんの困難がある(笑)。
岡崎
けれど磯崎さんは同時に伝統をいちばん理解しているわけで。ただ、日本で構築ということをデミウルゴス的にやると、平田篤胤のように見られる危険は避けられないと思うんですね。パウンドもそういうところがあるけれど、パウンドはそれでも中国を持ってくる。そこで外の中国ではなく、内なる外部を発見しようと(捏造しようと)すれば縄文のような古代語になる。 いずれにせよ、ゼロからデミウルゴス的に構築するやり方は、時にこう見えるだろうと思うんです。
磯崎僕がアナクロニズムだというのは、そういう意味でもありますね。
付記
けど、ぼくは実は丹下も好き。