白紙のうえの片吟
黴雨(つゆ)の梅啼く鶯はなかりけり響きは高し蜩の声
海原のごと畴(うね)りさわぐをみなへし風にちぎれむ潮の黄金
宿酔の水の渇きや畳の上(え)庭苔花は雨に光らむ
夏なれば磯の薫りそ便りなる風に忍べる海の言の葉
あるいは
夏なれば磯の薫りそ便りなる秋は夜月を打つ砧の音(ね)
飛ぶ鳥の塒ば思ゆ道の秋対向者もなし雨の寺町
宵枕(よいまくら)香のけぶりは細かれど微睡む夫(つま)の浴衣染めつる
山谷に響けや雲をながせ御神楽(みかぐら)舞う巫女に憑け古代神々
群青の海を抱けり星空は宇宙の靑を孕む幼子
神神に報告(しら)せど異国の吉女(よめ)なれば成す子に民は驚懼せるなり
海におつ三輪の夏花よ呪縛なり神罰などと呼称せらるも我らが子なる
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今年の夏から恋人と連吟をはじめた。
わたしが上の句をつくると、相手が下の句をつけて返し、また上の句も考える。
今度はわたしが下の句をつけて、新しい上の句を考える。こういう具合に拙い手つきでつづけている。
連吟をはじめたのには訳がある。思い当たる節としては、まずひとつは高校時代に読んだ岡潔の評論で、連吟ほど頭の速度が試されるものはないというパッセージにぶちあたり、ああ自分にはできまいと思いつづけていたものの、実際のところは秘かに憧憬を抱いていた。もうひとつは、古井由吉と吉増剛造の連吟を読んで、なんともそれが格好良いように思われたのだ。
困ったことに、わたしと御相手の方とでは、なにか根本的な感性=経験の差異にもとづくズレというものがあって、それゆえ偶さか、滑稽だったり珍奇だったりする歌ができあがってしまう。無論、これは不満でもなんでもなく、ただただ「こういう歌をみちびくのか」という純粋な驚異を味わえるために興味深い。素人なりの味わいだ。
一方で、実はわたしの方は上の句をつくるたびに自分なりに下の句を考えている。
冒頭から開陳をつづけたのは個人でつくった作品のみで、そうすることにより恋人に「さる場所に掲載してよいか」と訪ねる手間が省けるというわけだ。こう訊いてみたところでおそらく彼女は困惑するので、そのときの良い言い訳が考えられなかった。つまり、ただ片吟を白紙 albにのこそうと思っておこなったのだ。
以上、梅雨入りから最近までの間につくった数品の拙作(一部)。
後記: 後半の数編はたった今つくった。