■ph■nisis

すべて真実

桃乃譚

 

酔いの土手 くるも俄の 宵雨に 

遠のく船と 桃香の匂える

 

今年初めての桃を食した。そこで思い出したことがあったのだけれど、この話、恋人には聞かせることのできぬ類のモノなので、あのひとに知られることがないよう、ここに書くこととする。

 

高校3年生の夏のこと。ボクは当時、歳がふたつばかり上の女性とオツキアイしていた。夏季休暇の頃に岡山と京都に行こうという話になり、岡山は牛窓の方を目指した。

牛窓の方」という含みのある言い方をするのは、具体的なバス停の名前を既に忘れてしまったためである。今更わざわざ思い出そうと努めるのも野暮で、また記憶の頼りになるような物品も最早手元にないのでわからないのだ。ただ、岡山駅から両備バスをつかって岡山西大寺まで出、また別便のバスに乗り継いだのは確かである。つまり、ボク(ら)は牛窓にさして興味はなかったのだが、ついうっかりと乗り過ごしてしまい、しかも終着点の牛窓に至ってたからそれに気が付いたのである。

バスの数が心配だったのだけど、幸い1時間に1本はある。仕方ないので此処で時間をどうにかして潰そうという話になり、暑さに蹌踉うになりながらとぼとぼと歩いた記憶がある。

そこで初めて驚いたのが、海原の素晴らしさだった。

当時のボクにとっては、海といえば湘南の印象しかなく、こんなにも鮮やかで煌めきを放つ「海」がこの世にあるものなのかと驚愕したものである。

此処からすこし離れたところに点在する小さな島々や、沸き立つ白い泡の伸びやかな畝りの鮮明な光景は、なんとも生き生きした映像のように感じられた。

連れ合いは石段に腰掛け、昼そよぐ海凪をたのしんでいた。民家は小洒落た造りのものが多くて、あとは年季の感じさせる海の町の古家ばかりがあった。

それから、坂の先にある神社へ詣でてみた。木漏れ日の土道の先に本殿がある。牛窓神社といった。箒で掃き掃除をする老婆に挨拶をしたところ、明日に海浜で花火があがるという話を聞いた。生憎、その時刻には京都なので行くことはできなかったが。

 

神社を後にして、屋台喫茶で冷えた珈琲を注文した。土地の老人たちとあれこれ話をして、この牛窓に住む人々がどういう人間であるのかを聞いた。教授職を辞めたひと、一家で移り住んできたひと、ずっと昔から此の地で家を継いでいる人。終の栖の場所のようで、遠い気持ちになった。

1人の男性がやってきた。桃を買った、と言って現れた。屋台の店主がなれた手つきで桃を剥く。薄い刃の包丁で生毛のあたたかそうな黄の皮をとり、熟れた実を切る。どうぞ、と我々にまで出してくれた。

遠方から来てくれた、それに、この桃は清水白桃と言って美味しいから、と席まで持ってきてくれたのだ。紙皿に盛られた実からは甘い香りがただよっていて、果汁が垂れていた。

 

吉備津彦は温羅を討伐した。温羅は鬼だが、異国の人間だったという。対して吉備津彦は朝廷の側。尊は戌、猿、鳥とを従えて温羅を殺した。しかし、われわれも異国の人間だな、と桃を前に古譚を思い出していた。

 

 

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