神神の罠
上の記事に掲載した拙作に対し、後半において神(性)が頻出してることを指摘する声が知人からあがった。このことについて少し。
いま筆者の経机のひきだしには、じつに愛らしい花花のイラストレーションが散りばめられた装幀に包まれた、一冊の歌集が収められている。設計を手掛けたのは棟方志功。書は『魚歌』の名を冠す。斎藤史の第一歌集である。
斎藤史がつむいだーー少なからず言葉遊びの過剰なーー神々の歌からは、気の赴くままに人間の運命を操り、時に眩暈をあたえるほど美しいやり方でひとに罠をかける神に対する、ある種の諦念を感じさせる。かくして筆者に鮮烈な印象をのこした。
あかつきのなぎさぬかりて落ち沈みわがかかりたる神神の罠
植物は刺をかざせり神神は罠あそびせりわれは素足に
「罠」
事件を境に史が断絶をむかえる点については諸氏の指摘するところだが、これまで複数形で語られていた神が単数形となり、また罠に愈々身をまかせてしまうような情景がうかがえるのは見逃しがたい。
わが神の罠の美美しさにまなくらみたふれし森に虹たちにけり
「暮春」
そういうわけで、「神」なるモティーフの選択にはかなり明視的なかたちで斎藤史の影響下にあることが(質問をくれた知人には)みてとれよう。また音強の操作に関しても史の影響を認めることができる。
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夜毎に月きらびやかにありしかば唄をうたひてやがて忘れぬ
「スケルツオ」