私が教員をやめるときは、ずいぶん迷った。なぜ、やめなければならないのか。私は仏教を勉強して、坊主になろうと思ったのだが、それは「さとり」というものへのあこがれ、その求道のための厳しさに対する郷愁めくものへのあこがれであった。教員という生活に同じものが生かされぬ筈はない。私はそう思ったので、さとりへのあこがれなどというけれども、所詮名誉慾というものがあってのことで、私はそういう自分の卑しさを嘆いたものであった。私は一向希望に燃えていなかった。私のあこがれは「世を捨てる」という形態の上にあったので、そして内心は世を捨てることが不安であり、正しい希望を抛棄している自覚と不安、悔恨と絶望をすでに感じつづけていたのである。まだ足りない。何もかも、すべてを捨てよう。そうしたら、どうにかなるのではないか。私は気違いじみたヤケクソの気持で、捨てる、捨てる、捨てる、何でも構わず、ただひたすらに捨てることを急ごうとしている自分を見つめていた。自殺が生きたい手段の一つであると同様に、捨てるというヤケクソの志向が実は青春の跫音のひとつにすぎないことを、やっぱり感じつづけていた。私は少年時代から小説家になりたかったのだ。だがその才能がないと思いこんでいたので、そういう正しい希望へのてんからの諦めが、底に働いていたこともあったろう。
坂口安吾「風と光と二十の私と」
ああ、安吾って優しい奴だな。ここまで優しい文学者って他にいるのかい? 草野心平ぐらしいか思いつかないよ。だから、坂口安吾を根性論の焼糞野郎だと思ってる奴は、改心していただきたいね。
ところで、安吾はつねに未完成的である。未完成が完成として貫かれているようである。それは宮沢賢治的な、未完成を完成の一形態と見做すような意味ではなくて、つねに未完成というか、未熟さが主張にまつわりついている。そればかりか、その文体も主張も整ったかたちをとっておらず、場所も時間も性も数も格も不整合な感じである。未熟さや未完全さ、歪さが徹底的に認められている。例によって柄谷行人がこれを指摘している。
安吾のテクストはまだほとんど汲みつくされていない「可能性」として活きて いる。安吾はつねに過激であり未完成である。というより、彼は完成とか成熟といった制度的な観念と無縁であった。この「未完成」が、 いかなる「完成」にもまして、われわれを刺戟し挑発しつづけている。 知的であることと肉体的であること、倫理的であることと超倫理的(アモラル)であること、地を這うことと天翔けること、 西洋的であることと東洋的であること、文学的であることと反文学的であること、そうした両極性が安吾のテクストほどにダイナミックに統合されている例を私は知らない。
安吾は、人間とはわけのわからなぬものだと言ったり、運命を不思議なものだと言ったり、自分の憧れが世捨てだと言ったりする。したがって、断言的ではあるが、物事の奇妙な曖昧さが常に漂流している。安吾が断じているそれらが実のところ何であるか、いつもいまいちわかりかねる。苛烈な口調のなかに、そういう決定の欠如がある。けれど、それは近代文学的な曖昧さだとか、不明瞭さとは無縁である。安吾は決定を欠かすが決して不明瞭ではない、そういう両価性を孕んでいる。彼の口調、主張はむしろ活き活きとしていて瑞々しい。
それはセンシュアルな体験である。安吾の文体から熱気とか力強さといった手触り=感官的=センシュアリティをわれわれは得るが、その感触は確かなもののはずだ。それなのに理解だとか納得だとか、決定性を欠いている。しかし、こういう「感じる」という世界こそ、安吾の文学性、芸術性において最も重大な位置を占めているのだ。
「感じる」ということ、感じられる世界の実在すること、そして、感じられる世界が私達にとってこれ程も強い現実であること、此処に実感を持つことの出来ない人々は、芸術のスペシアリテの中へ大胆な足を踏み入れてはならない。
坂口安吾「FARCE」に就いて」.