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すべて真実

前回の補遺

 

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前回の記事はボクにとってかなり力作だった。ただし、それは「力を要した記事だった」と言う意味である。内容自体は大したことない(歴史の確認と柄谷行人の読解だから)のだが、文学や歌舞伎の歴史を全く知らない身分だし、その分、資料集めや読み込みにエネルギーと時間をつかったわけだ。

 

書かなかったことはいくつもある。それは然程必要と思われなかったから書かなかったのだが、補遺としてここに記す。

まず柄谷行人の手つきが極めて構造主義的であり、モダニズム的批評そのものであることを念のために付しておく。だからといって、もちろん柄谷の言説が無意味だとか無価値だとか言うわけではない。この頃の柄谷行人は凄いよね、とよく友人と話す。

余談だが、五来重の念仏研究もこれに通じるものだ。五来が念仏踊の発生を「五会念仏」に求めていることはよく知られる。五来重にいわせれば、五会念仏は運動性と音楽性とを伴う念仏であり、日本の念仏の起源に位置付けられる。だからこそ、後世に踊念仏念仏踊は誕生したのだと言う。

五来重の言説には、正直首肯しがたいものがある。まず五会念仏を日本の最初の念仏にするかどうかについても議論があるだろうし、歴史を追っても論難に出会うことは少なくない。解釈や理解に誤ったところも多い。もっとも、これは念仏研究に限らないはなしである。たとえば、修験道関係の論文を読んだとき、「浮屠」を「死者」と解していたが、このような誤解はいくらでも散見される。

しかし、五来重の念仏研究は、ヴェルフリンの概念をつかって絵画史を論じたクレメント・グリーンバーグと同じである。五来重は「運動性」「音楽性」を念仏における固有の媒体と捉えているのだから。

したがって五来重に対して「仏教民俗学者」「宗教民俗学者」とは別の価値を見出すこともできるわけだが、これは明らかに仏教民俗学の領野では語り得ないはなしだし、仏教学、民俗学の分野外でもある。もっとも、仏教民俗学の思想は常にアクチュアルな問題であり続けていることも踏まえれば、五来重はそれでも大きな課題ではあるのだが。

 

ところで、ぼくは今回、歌舞伎と身分に関する歴史を少し知った。知ったというより、驚いた。大笹吉雄の『日本現代演劇史 明治・大正篇』には、つぎのような記述がある。

 

天保九年(一八三八)、江戸幕府最後の革新粛清政治がはじまる。いわゆる天保の改革である。演劇ーーといえば歌舞伎のことだがーーーもきびしい弾圧を受けて、官許の劇場の江戸三座中村座市村座守田座)は、新吉原近くの猿若町に強制移転させられた。為政者のいう二大悪場所、遊里と劇場が一般社会から隔離されたわけである。以後、明治五年(一八七一)に守田座新富町に進出するまで、劇場は市中に建設されることはなかった。猿若町とは、劇場街としての整備が緒についてからの新命名で、それまでその地は浅草寺裏の広い湿地帯だった。

劇場の強制移転とともに、歌舞伎俳優もさまざまな処罰や制限を受けた。たとえば天保十三年(一八四二)には、俳優が外出するときには編笠の着用が義務づけられた。住居は劇場の近接地域内と決められ、一般人との交際もまた、極端に限られた。生活態度が分にすぎると、七代目市川団十郎は江戸十里四方追放の刑に処せられた。

これらのことは、俳優の身分を明らかにしようとの幕府の意図のあらわれだった。その極端な例としては、俳優の人数を動物並みに何匹と数えたことであろう。寛政期(一七八九〜一八〇一)の名優五代目市川団十郎が、「錦きて畳のうえの乞食かな」とその境遇を自嘲したのも無理はなかった。一言でいってどんなに富裕な暮しをしようと、歌舞伎俳優は「人間」ではなかった。

 

大笹吉雄『日本現代演劇史 明治・大正篇』.

 

 

いわゆる「江戸の文化」として今日語られる歌舞伎。それを演じる人びとの地位は極めて低かったのだ。思えば、当時の「廻舞台」の仕掛けを踏まえれば、なにか近しいものを感じないこともない。

もっとも、大笹吉雄の研究がこんにちどれだけ通用するかどうかという問題は等閑視できない。近年、同和の研究と教育は大きく改変した。本書はそれより以前に書かれたものなので、階級制度の認識をはじめとし、今日的には古い見立てが少なくない。しかし、本書は演劇史をめぐる書物としては、素晴らしい輝きを誇っていると思う。

 

もうひとつ参考にした資料として、尾崎宏次の「現代の演劇」という論文がある。『岩波講座 日本文学史』第11巻のうちの一冊だ。記事では紹介しなかったが、柄谷がふんだんに使っていた「写生」という語―概念が、いかにこの時代の歌舞伎にとって重要だったかが知れたし、大笹本と並行して読むのにちょうどいい本だった。大笹の『日本現代演劇史』は買おうと思っている。

 

 

付記

「車は任せろ」と言っておきながら他人の車に衝突し、往来であろうと妻を殴る――念のために言えば妻も余裕で手をあげる――、あの山口組の息子にもその乱暴ぶりを怖れられた(らしい)柄谷行人だけれど、現在、どちらかといえば好々爺にちかい雰囲気になっている。こういうところも坂口安吾に通じるかもな。

なんだかほっこりするよね。この顔(かんばせ)。

 

 


柄谷行人:哲學是普遍思考

 

 

 

 

近代の歌舞伎と文学 ーー柄谷行人の「内面の発見」

 

 

先日Twitterにトレンド入りした『女殺油地獄』は近松の作品である。NHKでこれが放映されたために、あの日ネットが沸いたのだが、わたしもこれを観ていた。

本作が高い評価を受け、しかもようやく歌舞伎化されたのは、意外にも明治時代にもなってからである。戸坂康二はつぎのように言っている。

 

 

主役の河内屋与兵衛の性格は、放埓で、やや虚無的な所もあり、それは近代文学にも共通するので、明治に勃興した近松研究にたずさわる人々が、早くから注目した作品である。 

 

戸坂康二「解説 女殺油地獄」『名作歌舞伎全集 第一巻 近松門左衛門』.

 

 

この作品を積極的に評価したのは坪内逍遥である。坪内逍遥近松に注目したのは、文学者としての興味からだけでなく、彼が明治期に発生した歌舞伎改革を推進した人間でもあったからである。周知の通り、明治は文学展開の時代でもあったが、また演劇が展開する時代でもあった。この動向は、歴史的には維新改革の20年後ころから始動したとみられ、多くの文学者、戯曲者たちが積極的に海外の戯曲を紹介したり、自国の演劇の戯曲執筆に勤しんだりした時代だった。しかし、演劇の「改良」においてことに重要だったのは、歌舞伎の改良だったーーちなみに、「かぶき」が「歌舞伎」という字に定められたのも明治期(歌舞伎座の設立)のことで、それ以前は「劇」「かぶき」が通用していたーー。こんにちでは歌舞伎は江戸庶民の娯楽物だったという側面ばかり知られがちだが、明治期の文化人は、むしろ歌舞伎の庶民性を卑俗さと結びつけ、歌舞伎に国劇の価値を与えようと努力した。当時の日本には国劇たりえるものがなく、西欧趣味との甚だしい乖離と考えられたからだ。

その火種は守田勘弥守田座をひらき、政界の人間たちと共に改良を提唱したことにはじまる。明治19年に組織された「演劇改良会」は、渋沢栄一大久保利通陸奥宗光井上馨福地桜痴といった、伊藤博文系の近代化推進者たちによって固められたーー言うまでもなく、この頃、伊藤博文は初内閣を開いていたーー。他方で守田勘弥は9代目團十郎をはじめとする役者たちを自分の座に囲い、作品執筆と上演を通して改良を進めていく。文学者たちが改良の思想に感化されるのは、こういった経緯からだった。したがって、歴史的事実として歌舞伎と文学にまで分かちがたい関係があったといいえる。

そして歌舞伎改良を含む広義の演劇改良の運動を徹底的に指導した文学者のひとりが、ほかならぬ坪内逍遥だった。尾崎宏次はつぎのように述べる。

 

 

あたらしい演劇の誕生にとって、明治維新は若々しい母体であった。ふるい階級社会がこわれて、また別の階級社会ができてしまった点では、矛盾をはらんでいるが、その矛盾のなかで、演劇(主として歌舞伎)の脱皮が問題になるのは、維新の改革から二十年ほどたってからであった。その二十年のあいだに、西欧の戯曲が文学として、個々に紹介されたが、それを文学としてよりも、歌舞伎改良に帰着させる運動として展開しようとしたのは、演劇改良会であった 。改良会は、しかし、あたまのなかに有産知識階級とそうでない大衆という考え方を本質的にもっていたから、かなり露骨な欧化主義を土台にしていた。(‥‥略‥‥)維新直後の歌舞伎については、坪内逍遥安政6年―昭和10年 1859―1935)が、回想記のなかでしきりにワイセツであった点を非難しているが、のちに、その逍遥自身、結局、歌舞伎を国劇にするための改良運動にのりだしている。 

 

尾崎宏次「現代の演劇」『岩波講座 日本文学史』.

 

 

坪内逍遥は当初、歌舞伎の改良に否定的だったものの、のちに指導の立場をとるようになる。劇界に与えたその影響力は極めて強かったようで、明治43年には坪内逍遥は文芸協会の会長となる。この協会は島村抱月が創始したもので、文学と美術と演芸の改革を推進するために組織された。しかし坪内逍遥が会長となってからは方向性が演劇改良一本に絞られ、新しい戯曲創作を活動の主体としていく。そればかりか、やがて協会は坪内逍遥の個人的な作家精神を体現させていく場になる。坪内逍遥は自作の新歌舞伎の上演をおこなったり、大久保に位置する自宅を研究所として若手俳優(新歌舞伎)の育成につとめたりしたのだ。これについて、尾崎宏次は「逍遥があまりに偉大で、逍遥があまりに多才で、その両翼のしたに、逍遥のあたらしい国劇脚本をいだいていたから」文芸協会の戯曲創作の活動はままならなくなったのではないか、と推察する。

 

明治期に近松を研究した者は坪内逍遥に限られるわけではない。この時代、多くの作家が近松物を新戯曲の母体とし、研究した。大笹吉雄によれば、次のとおりである。

 

 

伊井が近松ものを取り上げたのは、一維新以来、近松門左衛門再評価の気運が高まっていたことも背景にありーーたとえば武蔵屋叢書閣から近松作品の翻刻出版が開始されたのは明治十四年のことであり、また、 坪内逍遙近松研究会をはじめたのは明治二十七年だった 。 福地桜痴も『出世景清』(明治二十四年三月歌舞伎座)以後近松ものを何本か改作、上演したーー、 近松研究劇がはじまったころには、 近松は「日本のシェイクスビア」と呼ばれるようになっていた。

 

大笹吉雄『日本現代演劇史 明治・大正篇』 .

 

 

さて、テレビ越しとはいえ、ひさびさに『女殺油地獄』を観終わってなにとなく、坪内逍遥近松門左衛門のことを調べていたら、国立国会図書館デジタルアーカイブにて坪内の『近松之研究』が公開されていることを知る。

試しに読んでみたところ、坪内逍遥が注目するところが、この作品の主人公である与兵衛の心理である点に目が引かれた。

 

 

案ずるに与兵衛は其の経験の幼稚なるを小児に等し、彼れはおそらく打ち叩かれたる事なかるべし、失望の味はいは一たびもしらざりしならん其母親に折檻されるゝやいえらく「此の与兵衛が爰を出て行くところがない」と是何等無心無邪気ぞ二十三才の放蕩児の詞に似ずして八九才の児童の頑童の我儘に似たり 

 

坪内逍遥女殺油地獄」『近松之研究』.

 

 

坪内逍遥は『マクベス』を引用し、与兵衛の罪悪感の根源を考察するーー無論、ここには西洋のシェイクスピア当人と、「日本のシェイクスピア」である近松を比較しようという時代観をみることができようーー。したがって、ここにおいても坪内逍遥が重視するのは人物の心理であるといえる。『マクベス』では罪を犯したことに対する恐怖が意識の次元にあるのに対し、近松の件の作品においては、与兵衛の罪の後悔は自然的なもの、意識より深い無意識から生じたものと坪内逍遥は考える。

 

 

たゞし与兵衛とマクベッスとを比べれば其意識上に大きなる相違あり、マクベッスは君臣の義を解し人情義理を解し我弑虐の大罪たることを意識して其の君を弑殺す故に怖るゝや意識の中より無意識に生じたる恐怖なり与兵衛は然らず人情を知らず義理を知らず人を殺すことの大罪たるを知らざるにはあらぬも其何故に非なるかは明らかに知らず故に彼れの怖るゝや死顔を見たる自然の刺戟なり即ち無意識の中より生じたる恐怖也彼のマクベッスは判然怖るべき故を知れり故に現場を離れても心神悩乱し顔色土の如く血に染める我手を見て   

❝What hands are here? ha! they pluck out mine eyes/    

 Will all grent Neptunes ocean wash this blood     

 Olean from my hand?❞ 

 

坪内逍遥女殺油地獄」『近松之研究』.

 

 

ところで、ここに折口信夫の歌舞伎に寄せた批評がある。『女殺油地獄』の初演もつとめた實川延若をはじめ、時代の役者を賛した批評文だ。興味深いのは、折口信夫もまた心理に眼差しを向けていることである。

 

 

女殺油地獄」の芝居を、見て戻った私である。一日、極度に照明を仄かにした小屋の中にいて、目も心も、疲れきってしまった。思いの外に、役者たちの努力が、何となく感謝してもよい心持ちを、持たしてくれたけれども、何分にも、先入主となったものが、度を超えて優秀な技芸であった為、以前見たその美しい幻影が、今見る役者たちの技術の上に、圧しかかるような気がして、見ていてひたすら、はかなくばかり見えてならなかったのである。

明治大正の若い時代は、貴かった。その劇も、音楽も、浄い夢のように虚空に消えて行った。はじめて、この河内屋与兵衛を見たのは、今の実川延若の延二郎と言った頃である。さるにても、この若い油売りの手にかかるお吉のいとおしさ。中村成太郎――後魁車の、姿なら技術なら、今も冴えざえと目に残っている。二度目に見た時は、中村福助がお口を勤めていたが、此時既に、先の印象が、その後のお吉の感興淡くしたことであった。其ほど、魁車のお吉は優れていた。与兵衛の両親、同業油屋の徳兵衛・おさわに扮したのが、尾上卯三郎・嵐璃珏であった。この三人の深い憂いに閉され、互に何人かに謝罪するように、額をあつめた謙虚な姿、まことに、 こんなに人を寂しく清くする芝居もあるものか、としみじみ感に堪えたことであった。

もう此以上の感激はあるまい、とその時も思うた。其は今も印象している。而もそれに続く――向い家の老夫婦を送り出した心の、しみじみ清らかな油屋の女房へ、恐怖のおとずれびとが来るのであった。好意を持つもの同士の間に、其でもくり返さねばならぬ疑い、拗けごと。そうしてやがて、とり返されぬ破局への突進。人間の心と心とが、なぜこう捩れ、絡み、又離ればなれになって行かねばならないのだろう。人間はなぜ、人間の悲しみの最深きものに、直に同感し、直に共感する智慧を、持つことができないのか。時の後、破局への突進。私は、再見ることもなかろうと言う痛苦の感激を覚えて、呆としていた。其間に、舞台は頻りに進んで行く。私は、人間の滅亡を、唯傍視しているばかりであった。若い代の延若もよかった、魁車もよかった。その為に生れて来た人たちだと言っても、 誰が抗うであろう。私は三越劇場の女殺しを眺めながら「とりかえすものにもがもや」を、危く叫ぼうとした。其程の至芸が、曾て屢これとほぼ同じ年頃にあった人々によって、発揚せられたのを思わずにいられなかった。

 

 折口信夫「実川延若讃」.

 

 

折口信夫がここで役者の「演技」を批評しているのは明らかだ。演技や所作とは一見外面的なもののようだが、実のところ人物の心情や思考といった内的な活動を外在化させたものである。したがって演技は役者にとって、心理を表現するための文字としての機能を果たしていると言える。そしてその眼は、戯曲としての『女殺油地獄』(文字という文字)から登場人物の心理を考察しようとする坪内逍遥の眼と同様である。坪内逍遥にしろ役者にしろ、「心理」というものが当人らの手によって拵えられたものであるのは明らかだからだ。折口信夫が役者の心理を眺めるのは、役者が人物の心理を編み出してみせたからにほかならない。

 

 

柄谷行人は「内面の発見」ーー『日本近代文学の起源』所収ーーにおいて、近代文学が「内面」を発見した起源を前島密の言文一致運動に見出し、その影響が歌舞伎の改良へと及び、やがて文学にまで及んだと考えた。したがって近代文学の始まりは、改良会誕生から丁度20年前に起こった『漢字御廃止之義』誕生を契機にするというのである。

柄谷は前島密の指導した言文一致が、窮極的には漢字の廃止であったことに注視する。これを柄谷は〈形象の抑圧〉と捉えている。

漢字とは視覚的なイマージュである。たとえば「人」という漢字は、人間の様相を模して作られたのだから形象といえる。「木」も「火」も「川」も「親」も、あらゆる漢字は形象である。ゆえに漢字の廃止は形象の廃止であると言い得る。それはまた、音声文字の重視でもあった。前島密が音声を重視したのは、それが西欧の慣いであり、近代国家の建設に必要と考えられていた点を柄谷行人は強調する。

 

 

「言文一致」の運動は、 なによりも「文字」に関する新たな観念からはじまっている。幕府反訳方の前島密をとらえたのは、 音声的文字のもつ経済性(エコノミー)・直接性・民主性であった。彼にとって、 西欧の優位はその音声的文字にあると思われたのであり、したがって音声的文字を日本語において実現することが緊急の課題だとみなされたのである。音声的文字は、音声を写すものと考えられる。実際、 ソシュールは言語について考えたとき、文字をニ次的なものとして除外している。「漢字御廃止」の提言に明瞭にうかがわれるのは、文字は音声に仕えなければならないという思想である。このことは、必然的に話し言葉への注目となる。 いったんそうなれば、漢字が実際に“廃止”されようとされまいと、 実は同じである。すでに、 漢字も音声に仕えるものとみなされており、漢字を選ぶか仮名を選ぶかは選択の問題にすぎないからである。 

 

柄谷行人「内面の発見」.

 

 

言文一致運動の開始から20年後に発生した演劇改良もまた、形象の抑圧であると柄谷はいう。なぜなら、歌舞伎改良の本質とは、その優位性を「装飾」=「形象」から「内面」=「表音」に譲ったことだからだ。

形象は意味を直接明らかにするが、音声主義を重んじた時、形象は声に従われる。表音とは「表されるもの」であり、そのものとして「表している」ものとは区別される。その意味で内面の用意とは形象の抑圧なのである。しかし、歌舞伎における「抑圧された形象」とは何か。柄谷は歌舞伎の母体が浄瑠璃である歴史に着目し、独特な化粧や台詞回し、衣装といった装飾性=形象が歌舞伎にとって本来重要であったと述べる。ところが、改良された歌舞伎は、いまや内面を重んじる。したがって、装飾性(形象)以上に写実的な演技(表音)に優位性を譲るのである。

 

 

明治の文学史を小説に偏した眼でみないならば、「演劇の改良」こそ最も重要な事件のように思われる。 いわば小説に偏した眼そのものが、そこから生じてきたのだから。 鹿鳴館時代とよばれる欧化主義の絶頂期、明治十九年には、伊藤博文井上馨(かおる)などを発起人とする演劇改良会が組織されている。文学芸術の領域で、何をさておいても「演劇の改良」 か明治政府の後援でおしすすめられたことは注目に値する 。それは、ちょうど前島密が「言文一致」が日本の近代的制度の確立に不可欠と考えたのと同じような意味で、不可欠だと思われたのである。「小説の改良」すなわち「近代小説」は、そのような連関のなかでのみ存在する。中村光夫はいう。《改良会の実際の事業はほとんど見るべきものはなく、間もなく消滅しましたが、 この我国の社会でも芸術の位置を改良によって高めようとする機運は、 たんに演劇だけでなく、明治芸術の諸部門の勃興に大きな力として働いたので、 逍遥の小説革新はこの大きな時代の波に乗り、それに内容を与えたものといえます》(「明治文学史」)。

ところで、「演劇の改良」は露骨な欧化主義の波に乗る前に、明治十年代にすでに進行していた。それを担ったのは、新富座の俳優市川団十郎と、座付作者河竹黙阿弥である。 

 

市川団十郎が当時大根役者と言はれたのは、その演技が新しかつたからである。彼は古風な誇張的な科白をやめて、日常会話の形を生かした。また身体を徒らに大きく動かす派手な演技よりも、精神的な印象を客に伝へる表現を作り出すのに苦心した。それは守田勘弥の企てた演劇改良の思想と一致するものであつた。明治時代の新しい知識階級者は、団十郎のこの写実的でかつ人間的な迫力のある演技に次第に慣れ、彼を認めて当代第一の役者と見なすに至った。(伊藤整日本文壇史」1) 

 

団十郎の演技は「写実的」であり、すなわち「言文一致」的であった。もともと歌舞伎は人形浄瑠璃にもとづいており、人形のかわりに人間を使ったものである。「古風な誇張的な科白」や「身体を徒らに大きく動かす派手な演技は、舞台で人間が非人間化し「人形」化するために不可欠だったのである。 

 

柄谷行人「内面の発見」.

 

漢字においては、 形象が直接に意味としてある。 それは、 形象としての顔が直接に意味であるのと同じだ。しかし、 表土日、王義になると、 たとえ漢字をもちいても、 それは音声に従属するもので しかない。 同様に、 「顔」 はいまや素顔という一種の音声的文字となる。それはそこ写される (表現される) べき内的な音声=意味を存在させる。「言文一致」としての音声主義は「写実」や 「内面」 の発見と根源的に連関しているのである。  

 

柄谷行人「内面の発見」.

  

 

近代文学とは「写実」の文学である。自然主義文学の思想は内的世界への徹底であり、だからこそ啄木による糾弾や耽美派の擡頭が後世に発生するーー高田瑞穂が述べるように、耽美派の思想とは外界との不交流を旨とする自然主義文学への批判としてはじまったーー。近代文学の曙が「言文一致」だったと柄谷行人が言うのは、まさにこの意味においてだ。

 

 

伊藤整は、市川団十郎が「精神的な印象を客に伝へる表現を作り出すのに苦心した」というのだが、実際は、ありふれた(写実的な)素顔が何かを意味するものとしてあらわれたのであり、「内面」こそその何かなのだ。「内面」ははじめからあったのではない。それは記号論的な布置の転倒のなかでようやくあらわれたものにすぎない。だが、いったん「内面」が存立するやいなや、素顔はそれを「表現」するものとなるだろう。演技の意味はここで逆転する。市川団十郎がはじめ大根役者とよばれたことは象徴的である。それは、二葉亭四迷が、「文章が書けないから」言文一致をはじめたというのと似ている。

それまでの観客は、役者の「人形」的な身ぶりのなかに、「仮面」的な顔に、いいかえれば形象としての顔に、活きた意味を感じとっていた。ところか、 いまやありふれた身ぶりや顔の“背後”に意味されるものを探らなければならなくなる。団十郎たちの「改良」はけっしてラディカルなものではなかったが、そこには坪内逍遥をしてやがて「小説改良」の企てに至らしめるだけの実質があった。 

 

柄谷行人「内面の発見」.

 

 

柄谷行人は、内面を「近代的自我」と換言し、それが制度によって設られたものだと指摘している。この主張は「告白という制度」「病という意味」など、のちに『日本近代文学の起源』に纏められる諸論考の骨格となり、やがて『日本精神分析』へと続くのである。

 

 

浅田

柄谷さんは「日本精神分析」ということで日本文化の一一重性を漢字仮名交用という表記システムから考えてこられました。これは、来たるべき『トランスクリティーク』第二部にも取り入れられるでしよう。最近、専門的なところでは子安宣邦が漢字論を展開したり、 一般的なところでは石川九楊が書を通じた日本文化論を展開したりしていますが、それらもだいたい柄谷さんのパラダイムの延長上にあると思います。それはまた、磯崎さんの和様化論、ーー日本が外圧を内面化していく過程の分析ともつながるでしよう。

 

柄谷行人 ×    浅田彰 ×    岡崎乾二郎 ×    山城むつみ ×    磯崎新「「日本精神分析」再論」

 

 

柄谷

僕は一九七〇年代に『日本近代文学の起源』を書いた。それが九〇年代になって英語で出ることになって、あらためて読み直したんですね。すると序文を書かないといけない気がしてきた。昔それを書いた時とは、状況が違っていたからです。そのころ、 ベネディクト・アンダーソンの『想像の共同体』を読みましたが、 アンダーソンが言っていることは、僕が「日本近代文学の起源』でやっていたことと同じだと思ったんですね。実際、ほとんど同時期になされた仕事だったのですが。アンダーソンは近代のネーションの形成において新聞や小説が決定的な役割を果たすと言っているのですが、僕はまさにそういうことをもっと詳細に分析していたわけですよ。アンダーソンは、インドネシアを中心に新聞や小説の役割を考えていました。しかし、日本のようなケースでは、近代以前に起こった問題を考えないといけない。 

 

柄谷行人 ×    浅田彰 ×    岡崎乾二郎 ×    山城むつみ ×    磯崎新「「日本精神分析」再論」

 

 

 

 

夜半の雨

 

音がするので外に出たら雨が滴っている。

昨夜のうちに塵捨てを済ませたが、此処から百メートルも離れたところの回収場所まで歩くうち、風があたたかかったのが気になったものだ。だから、雨の予感はすでにあった。春の予兆ではない。

 

 しかし十年住まい続けて、今では寝床の中からお天気を間違えることはなくなった。最初は表通りの車の音で晴雨を聞き分けた。雨の日はタイヤの音が違う。そのうちに、それさえ頼らなくなった。嗅覚か、皮膚感覚か、第六感か、それともマンション感覚と呼ぶべきか、晴の気分で目を覚ませば外は晴、雨の気分で目を覚ませば外は雨、めったにはずれない。深夜に友人と電話をしている。ああ、雨だな、とこちらは屋根を叩く音も庇を叩く音も聞えないのに、そう言う。雨なものか、月が出ていたぞ、と木造住ましの友人は答える。しかししばらくして、ああ、やっばり雨だな、どうしてわかった、と感心する。 マンションの窓は雨音ひとつ伝えないのに、受話器の中から土砂降りのざわめきがさあっと溢れ出てくる。そんなこともあった。 

 

古井由吉「十年ひと暮し」.

 

 

 

 

付記

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過激な変奏

 

考え事をしていたら、もう日を大きく跨いでいた。

記事をひとつ書く。

 

前の通り。だがそれは重要ではない。時間は存在しない。けっして存在しなかった。裸形のエクリチュール。なんにせよ、なんであったにせよ、それ以前。おそらくは熱烈な視線。もう取り返しがつかない。誰も動かないのに運動がある。

 

フェリックス・ガタリ著,宇野邦一松本潤一郎訳『リトルネロ』.

 

そうだとも、そうだとも、そうだとも。時間は存在しないよ。

 

過去を変えることは不可能であるという思い込みがある。しかし、過去が現在に持つ意味は絶えず変化する。現在に作用を及ぼしていない過去はないも同然であるとするならば、過去は現在の変化に応じて変化する。過去には暗い事件しかなかったと言っていた患者が、回復過程において楽しいといえる事件を思い出すことはその一例である。すべては、文脈(前後関係)が変化すれば変化する。 

 

中井久夫統合失調症の精神療法」『徴候・記憶・外傷』

 

過去を振り返った時に辛い経験しか想起されないのは、現在の過酷さに由来しているという事態は実際ある。過去にできた疵にかかわる人物を未だに憎んでいたり、愛していたり、あるいは懴悔を望んでいたりするのであれば、間違いなく過去は悲痛な価値を帯び続ける。私自身、辛い経験を味わっていた同時期の細やかな楽しみを、きょう発見することはできる。そしてそれが現在のわたしと不可分な関係を結んでいることもよく知っている。

もちろん、付き合い続けるという選択肢はなんら許されざるものでもない。その意義はどうあれ、しかし、そうであるなら、未来の不安もまた現在の地点から拭うことが可能であると考えてもいいだろう。現在の幸福が将来に擁かれることに関して、不都合はない。

 

 

「龍夫ちゃん、あたしもういやになった。どうしてこんな旅をしなきゃならないの? こんなことするのに何の意味があるの?」
「意味なんかありゃしないよ。ただ始めたからにはつづけなきゃならないんだ。人生と同じだ」
「もうしんどいよ。人生はやめられなくても旅は途中でやめられるよ。やめてアメリカに帰ろうよ」
「帰ったって同じだよ、しんどいことに変りはないさ。どうせ同じなら変化があるだけ旅している方がましだと思わない?」
「毎日食堂探し、ホテル探し、行き場所探しでもう疲れた。何も見たくない、飽き飽きしたよ。どこかぱっとおいしいものを食べて、帰ろうよ」
「きみは疲労から逃避したくなっているだけだ。旅っていうのは最初の四分の一から三分の一あたりがいちばんきついんだ。今はちょうどその時期なんだよ。ぼくも一人で旅行していたときは十日目ぐらいがいちばん辛かったよ。発狂しそうなほど孤独だったし、よっぽど途中でやめて日本に帰ろうかと思った。だけど払った金がもったいないしさ、ここで挫折したらこの先何もやって行けない男になるような気がしてね。 死んだ親父にすまない、頑張り通そうって決心したのがつぎの日ぐらいだ。それからは最後までつづけてやるという意地だけで動いていたよ。だからさ、弓さん、全体を見通した上でこれは駄目だ、もうあかん、ときみは思うだろうけど、十日目の気分がきみにそう思わせているにすぎないんだよ」
「そうか、明日にはべつの気分になるかもしれないってことね」
「そうだよ、かならずなるよ」
「もっと悪い気分になって、もっと悪いことが起ったらどうする? やめて帰る?」
「そう思うのが十日目の気分なんだってば」
「じゃ、明日からはよくなるって保証してくれる?」
「少なくとも今以上に悪くなりやしないよ」
子どもたちを大声で呼び戻し、南に引き返した。

 

冥王まさ子『天馬空を行く』.

 

 

 

吉田博とリャド

 

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吉田博『山中湖』.

 

 

現在、上野の東京都美術館で吉田博展が開催されている。

吉田博は新版画の代表的な作家のひとりであり、川瀬巴水を右翼とすれば、吉田博は左翼。この2人を近代版画の両翼とみるむきに、異論はないだろう。

わたしが初めて新版画の存在を知ったのは高校時代のことだったと思う。この頃はまだ、川瀬巴水も吉田博も、「知る人ぞ知る」「海外で話題の」「古美術商が好む」といった評価を受ける、けっしてメジャーの域にはない作家たちだった印象だ。しかし、ここ2年の間にみるみる近代版画を主題とした展覧会が増えている気がするのは、わたしの思い違いだろうか。昨年の神奈川での川瀬巴水展をはじめ、今回の吉田博展、今年の秋冬にそれぞれ開かれる川瀬巴水笠松紫浪の企画展。すくなくとも今から4年前と比較すれば、明らかにその名声は高まっていると言わざるをえまい。

 

わたしは吉田博の絵には些か否定的である。新版画という運動自体、そもそも評価できない点がある。なぜなら、わたしはジャポニスムを否定的に評価しているからである。ジャポニスムに支持された新版画を素直に肯定することはできない。したがってわたしは吉田博を評価するフロイトも否定する――もっとも、フロイトはしばしば自分が芸術を見る目がないとシニカルに言うのだが(たとえばアンドレ・ブルトンへの手紙のなかで)――。しかし、それはそれとして、吉田博の絵を「巧い」とも思えない。吉田博は人物の描写が極めて稚拙で、色彩の区分けがやや平易である。その点、川瀬巴水はどうだろう。おそらく川瀬巴水も人物表現が苦手だったと思う。というより、それはあの規格の版画において逃れることのできない問題なのかも知れないけれど、川瀬巴水はそれをちゃんと「誤魔化している」。陥落を避けるように、常に人物は後ろ向きだったり俯いた姿勢だったり、陰に満ちている。顔を傘や笠をもって隠している。

 

 

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吉田博『落合徳川ぼたん園』.

 

 

 

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吉田博『不忍池』.

 

 

 

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川瀬巴水『春のあたご山』.

 

 

 

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川瀬巴水『駒形河岸』.

 

 

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川瀬巴水『芝増上寺』.

 

 

吉田博の絵画において、「自摺」という語は極めて重要である。吉田博は彫師と摺師を雇用して制作していたが、自分が納得すれば「自摺」の字を作品の枠外に必ず書きこんだ。これは比較的有名な話で、また不思議な話でもある。彫と摺を他者の手に任せた作品でも「自摺」とするのだから。吉田博は19世紀も終わりに渡米するが、どうやらその先ですでに彫師と摺師を雇用していたらしい。実際、アメリカ滞在中の作品(『グランドキャニオン』『ナイアガラ滝』など)にはすでに「自摺」の文字が見える。したがって吉田博は早い段階から自摺の思想を持ち得ていたことになる。

しかし、自摺の字が見えないとなれば、その作品の出来栄えは吉田博が納得しなかったという証なのではないか、と恋人が言った。実際、古美術商の間でも「自摺」の字の有無で値段は変わるらしい。

わたしたちは「自摺」のない作品を探し、4つを見つけることができた。『山中湖』『湖畔の庭』『秋之銀杏』『姫路城 夕』である。なかには吉田博がどの点を良しとしなかったのかいまいちわかりかねるものもあったが、『山中湖』に関しては、水の表現が曖昧だったからではないのか、と我われは推察した。字さえなければ反転してもさほど区別はつかぬような気さえする――なお、記事の冒頭に掲げたのが『山中湖』だが、枠外に「自摺」の文字が見えないことがわかるだろう――。

 

ところで、吉田博の現物を目に、もうひとつ川瀬巴水との違いを確認することができた。それは「運動性」の有無である。吉田博の絵はつねに静止している。だが、不思議なことではない。吉田博は脚を使って山を登る人間だったが、登る人間を作品の主題にはしない。主題は山であって人間ではない。このような傾向は、吉田博が版画に向かう以前の油画時代からすでに窺がえていた。彼の『渓流』は流れておらず、巌の存在感だけが克明に描かれる。最初のアメリカ巡行でも、主題は圧倒的に山や岩石、あるいは建築物である。以後も同様で、人物画もなにか切り取ったような雰囲気を逃れていない。そういう眼差しは、人びとの生活という活動のなかに郷愁を見出した川瀬巴水とは真逆であるといっても良いかもしれない。

だから、吉田博の絵画は絵画でなく写真めいていて、それもかなりスローな写真という印象を受けた。それはあの有名な舟の絵を前にしてのことだったのだが、瞬間、ハイスピードカメラの写真を思わせるトレンツ・リャドの作品を不意に想起し、また両者の差異を考えた。

 

昨年、わたしはトレンツ・リャドの展覧会に行った。最後の印象派といわれるこの画家の絵を間近に見たのは初めてだったが、とにかくうんざりさせられた。リャドの作品のどこが印象派なのだろう。一見炸裂しているかのようなモティーフは、実は凍結している。ごりごりに固まっていて運動性を知らない。運動性のない印象派はいないだろう。わたしは印象派の絵も素直に肯定できないが、モネの絵画を多少とも知っていれば「最後の印象派」などという馬鹿らしい語を易々と口にはしないはずだ。いうまでもなく、モネやセザンヌといった初期印象派の画家たちの絵は、映像だからだ。ゆえに、リャドの作品は印象派的でない。写真的なのである。しかも炸裂の瞬間という凝り固まった状況が多いから、わたしはハイスピードカメラ的だと思った。

また、リャドの絵にみられる画面上の矩形。これはリャドの作品における特徴だが、<リャド・フレーム>といわれるらしい。正に、文字通り、「フレーム」なのである。‥‥‥もうひとつ余談だが、リャドの絵に記された字は極めて雑である。その事実にも困惑した。‥‥‥

しかし、本当にうんざりさせられたのはリャドの絵を「美しい」といって憚らない観客、ではなく、その観客たちにリャドの魅力を語って売るバイヤーだった。売ること自体は問題ないのだけれど、嘘くさい美術史や批評的な言説を糧にしている様子にはげんなりとした。「骨董屋の口車に乗せられてはいけない」という、なにかの評論で読んだ一文が、ぐるぐる頭のなかで巡ったものだった。