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すべて真実

消える鬼

 

説話を読んでいて気がついたのだが、しばしば、鬼は途端に消えるものとして描かれる。

 

たとえば、『古本説話集』第五十五「摩訶陀国鬼食人事」には人間を喰い殺しつづけてきた悪鬼が登場する。物語において、悪鬼はまずMagadhaに現れる。Magadhaはガンジス川中流に位置する国名で、現在のインドでいうところの北東に位置する。摩訶陀は音写語。

登場する鬼に関する情報らしい情報といえば、ただ、「人を食ふ」[1]のみ。ところが、そこに釈尊が現れると、鬼は毘舎離へと逃げる――毘舎離はVaiśālīの音写である――。釈尊が同国を遊行しに訪れると、鬼はまた「摩訶陀に行きて同じやうに人を食ふ」[2]。なるほど、釈尊の前では鬼といえども追われる身になるようだ。遊戯の慣いも逸脱する。尤も、釈尊は鬼を追いかけていたと言うべきなのかは判然としない。『タルムード』に描かれた、死神と商人の運命に似ているものとして解釈するのが妥当であろうか。

 

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作者不明 『六道絵』(12C) 聖衆来迎寺

https://www.kyoritsu-wu.ac.jp/advance/magazine/2018/08/70/

人を貪り食らう鬼を前に釈尊は嘆く。「我行なひしことは、一切衆生の苦を抜かんと思ひてこそ、芥子ばかり身を捨てぬ所なくは行ひしか。かばかりの鬼一人をだに従へぬはあさましき事也」[3]釈尊の思惑は、生きとし生けるもの全ての教化のようだ。にもかかわらず、このように眼前の鬼一体さえ満足に教化できないのは、なんとも嘆かわしいことだ、と言う。

すると、この言歎を耳にした鬼はたちまちに「あとかたなく失せ惑ひ」[4]、しかも「永く止りにけり」[5]と言う。つまり、鬼はたちどころに消え失せ、とこしえに人を喰い殺すことを止めたわけである。本話は次のように締め括られる。「何にも仏に少しもあひまゐらすべき。永くおはします仏にえ仕うまつらぬ、心憂し」[6]

 

五十一「西三条殿若君遇百鬼夜行事」にも鬼があらわれる――これについて、極めて優れた文学作品と呼ばれうるものと、筆者は密かに、堅く信じつづけている。その由縁は、正に鬼の消える場面の筆舌にある――。

西三条は神泉苑の近辺と思うと把握し易いだろう。朱雀大路の西側に位置する。西三条殿は藤原良相を指し、物語の主人公たる若君は藤原常行をいう[7]

若君は女道楽に随分お耽りのようで、夜毎、東の京の想い人が許へと通われている。ある夜、若い舎人をひとり従えて若君が逢瀬に向かうと、東の大宮通りの方から「人二三百人ばかり火ともしてのゝしりて来」[8]。若君は人に見られてはいけないと、舎人の助言に任せて神泉苑の北門へ入り、柱の許に屈んで隠れた。

そこで明らかになるのだが、往来の向こうからやって来た二三百人の者どもは、実に百鬼の夜行だったのである。「火ともして過ぐる者ども見給へば、手三つ付きて、足一つゝ(付)きたる物(者)あり、目一つつきたる者あり。「早く鬼なりけり」と思ふに、物もおぼえずなりぬ」。[9]

 

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土佐光信 『百鬼夜行図』(16C) 大徳寺

https://funart.hatenablog.com/entry/2020/05/12/163041

若君は怖ろしい心持で構えていたことであろう。しかも、鬼は若君の様子に気がつき、気配を頼りに若君を搦めようとする。ここを起点とする物語の展開、そして一連の結末の描写、すなわち百鬼夜行が消失する場面の筆舌が素晴らしい。全文を附す。

 

この鬼ども、「ここに人けはひこそすれ、搦め候はん。」

と言えば、もの一人走りかゝりて来なり。今は若君、「限りぞ」と思ふに、近くも寄らで走り返りぬ。「など搦めぬぞ。」

といふなれば、             

「え搦め候はぬ也」

といふ。

「など搦めざるべきぞ。確かに搦めよ。」

とて、又異鬼をゝこす。同じ事、近くも寄らず、走り返りて往ぬ。

「いかにぞ、搦めたりや。」

「え搦め候はず。」

と言へば、

「いとあやしき事申す。いでおのれ搦めん。」

と言ひて、かくをきつる物(者)走り来て、先々よりは近く来て、むげに手かけつべく来ぬ。「今は限り」と思ひてあるあひだに、また走り返りて住ぬ。

「いかにぞ。」

と問へば、

「まことにえ搦め候ふまじきなりけり。」

と言ふ。

「いかなれば。」

と、人だちたる者言ふ也。

「尊勝陀羅尼のおはします也。」

といふ声をきゝて、多くともしたる火、一度にうち消つ。東西に走り散る音して失せぬ。中々その後頭の毛ふとりて、恐ろしきこと限りなし。[10]

 

百鬼夜行はなぜ消えたか。若君が尊勝陀羅尼の御守を携えていたからである。本話のつづきによれば、件の陀羅尼は若君の乳母の親族である阿闍梨が与えたものであったという。しかも、若君が出歩いた日は夜行の厄日であった。夜行は陰陽道の暦が定める日。それゆえに若君は百鬼夜行に出くわしたのである。若君は帰宅後から数日の間は病に臥したものの、祈祷の甲斐もあって助かったようだ。説話の最後では御守を「具し奉るべき也」[11]と述べられる。

この物語で特に注目するべきは、まず徐々に鬼が近づいてくる、という設定ではないか。鬼は若君に歩み寄る。「捕えることができない」と言うたびに異なる鬼が近づく。一度、二度、三度目にして若君も命の終わりを感じる。徐々に徐々に、時間の経過と共に場の緊張感が昂っていく。

その緊張感が、ふっ、と消え去るのもまた作品の妙だ。尊勝陀羅尼の存在に感づいた鬼が、長たる鬼にそのことを伝える。途端、闇の大路に点々ととぼっていた松明の灯は一度に消え、暗黒の東西を無数の足音が散っていったという。永井荷風の『墨東奇譚』中、唐突な雷雨の情景の筆致を想起した。

ところで、高橋貢は解説中、この作品のリアリティは、当時の「人々は鬼や怨霊が現実にいると信じていた」[12]点にあることを示唆している。「人が殺されても警察官は来ず、鬼の難として処理された。・・・(中略)・・・当時の人々は話末の一文にあるように、恐らくお守りを身につけたことであろう」[13]

 

なお、ここにあげた二作は、いずれも類話が諸説話にのこる。

 

 

 

[1] 高橋貢、『全訳注 古本説話集 下巻』、講談社学術文庫、2001、92。

[2] 前注におなじ。

[3] 前注におなじ。

[4] 前注におなじ。

[5] 前注におなじ。

[6] 同書、93。

[7] 同書、44。

[8] 同書、43。

[9] 同書、46。

[10] 同書、46―47。

[11] 同書、50

[12] 同書、53。

[13] 前註におなじ。

藤枝静男『田紳有楽』と説話『信濃国聖事』あるいは『信貴山縁起』

 

私の身体は主人の垢だらけの大きい手に掴みあげられた。私の全身を戦慄が走った。私は石に叩きつけられて四散するのか。だが主人はそのまま私を胸にあててもう一度山村を拝すると

「滓見白と申す貧僧の姓名をこの丼鉢に与え、これより後は貧僧になり替って幾久しく貴僧にお仕えいたさせることと致します。貴僧のお供として日本国に渡り、何用たりとも即刻に足すことができますよう、この卑しい召使に人間変身術と飛行の力を授けますので、何卒御一見下さいますよう。それ飛べッ」

 絶叫とともに私の身体が宙に放りあげられた。そして空中にはなたれた私は、風を切って滑かに回転しつつ遥かの高みに浮かびあがって走りはじめたのであった。

「痛快、痛快」

 

藤枝静男『田紳有楽』.

 

藤枝静男の『田紳有楽』には、骨董屋に身を変えた弥勒菩薩が従える珍奇な骨董品や生物が登場する。上に引いたのはーー彼本人が述べているようにーー空飛ぶ丹波焼き「滓見(かすみ)」の自己遍歴である。

空飛ぶ鉢。この設定の珍奇さ。しかし、鉢が飛行するという設定は、わが国で成立した説話より既に見える。

 

今回で三回目をむかえる『古本説話集』の記事。このたびは「信濃国聖事」をとりあげる。本話は『信貴山縁起』の類話として知られる、命蓮法師の伝説である。ここでは空飛ぶ鉢の箇所のみ確認しよう。例によって高橋貢の訳註を参考にした。

 

東大寺で受戒した命蓮は、信貴山で「行なひて住まむ」と思い定住する。法師は乞食行のための鉢をもっており、いわく「僧の鉢は常に飛び行きつつ、物は入りて来けり」。つまり、鉢は自ら空中を飛行し、物を蓄えて法師の許へと戻るという。

さて、山里に「いみじき徳人」が住んでいたが、「大きなる校倉のあるを開けて、物取り出でさするほどに」と説話は語る。即ち、鉢は己の力で徳人の校倉の扉を開けて、物を取ってくるらしい。徳人はある時これを無視しようと、信貴山から飛んできた鉢を蔵の隅に投げ置いた。そうして、そのうち徳人は鉢の存在を忘れてしまい、その日の終わりに鉢を残したまま校倉の戸を閉めてしまった。

すると、「とばかりて、この倉、すずろにゆさゆさとゆるぐ」。徳人は「いかにいかに」と騒ぐ。校倉は「ゆるぎゆるぎして、土より一尺ばかりゆるぎ上がる」。その時になって徳人は「まことまこと、ありつる鉢を忘れて、取り出でずなりぬれ、それがけにや」と察する。だが、気がついたときには「この鉢、倉よりもり出でて、この鉢に倉乗りて、ただ上りに、空さまに一二尺ばかり上る」。人びとは集まり、「この倉の行かむ所を見む」と追いかけはじめる。やがて、校倉を乗せて飛行する鉢は河内まで至り、修行する命蓮聖のかたわらに「どうと落ちぬ」。

 

確信はないが、藤枝静男が上述した「信濃国聖事」ないし『信貴山縁起』の物語を参考にした可能性を推理することはできないだろうか。

この推定を支持する証拠として、藤枝静男が仏教に関する深い知見を得ていたことを指摘しよう。

『田紳有楽』は確かに傑出した私小説だが、また、仏教文学と言って差し支えぬ代物だ。それは、たとえばグイ呑みと金魚のC子が交接する際に叫ばれる科白や、エセ乞食僧サイケンの称える陀羅尼から察せよう。

 

私の内部の熱い皮膚が反応しエロチックに膨れてC子をくるみこむように律動しだした。

「子供を生め。子供をつくろう」

 と私は叫んだ。C子がそれに和して叫んだ。

「山川草木悉皆成仏、山川草木悉皆成仏」

 

彼は食事のたびに私を額から頭のあたりに持ちあげて圧しつけたり捧げたりしながら、何回となく「オム マ ニバトメ ホム」と称えながら私の腹の内側を舐め清めたり、・・・

 

つぎに、おそらく、この小説において最も感動的な弥勒菩薩地蔵菩薩による対話の箇所に注目しよう。センチメンタルな気分に浸った二人が、瀬戸内で釈尊の思い出を語らう場面である。そこでは数多くの教理的な誤解を指摘することができるが、人情くささ溢れる描写のなかに、作者・藤枝静男の仏典へのかかわりを予感させるあたたかさのようなものがある。

 

「これが竜華の滝」

 地蔵が冷やかすように云った。やさしい滝だと私は思った。

「お釈迦さんは根からやさしい人だったね。さっきの話じゃあないけど」

「そう、いろいろね。何時もお供であるいていたが」

「私は子供の時分から腰巾着みたいにくっついて歩いた」

 と私は答えた。

 釈遅は成道をすませてからも、ちょくちょくネパールの生まれ故郷に帰ってうろついていた。昔の領地では一族が亡びてもまだ殺したり殺されたりしていた。釈迦は故郷に近づくと食慾がなくなってしまって、洗ったなりの空鉢を持ったなり、托鉢もせずに村はずれをトボトボ歩いてばかりいた。 だがやっばり怖しい人だと思ったこともある。ある晩深い森のなかをさまよっていると急に光が射して、 毘羅天という、他人の喜びを食料にして生きのびているヴェーダの悪神が現れて「あんたのような尊い人が自ら王となって国を治めれば万事解決するじゃあありませんか」と云って誘惑したことがある。すると師匠がいきなり「悪魔よ去れ」と怒鳴りつけた。餡毘羅天が吹き飛ぶように消えて、あたりはまた闇にとざされた。破鐘みたいな声だった。

地蔵が

「私らはどっちつかずだからね」と云った。「師匠は人が死んだ後どうなるかなんて一度も云ったことがなかった。生まれかわるなんて云ったこともなかったしね。そこへ行くと私なんかこっちへ来て以来極楽とか地獄とか六道の辻とか、賽の河原なんて云われて、弱り果ててますよ。まあ嘘も方便、インチキもあんたの来るまでのつなぎだと観念してはいますけどね」

「個の実在はない、何にもない。土になり風になり水になるが自分はない。生せず滅せず増せず減ぜずなんてね。思い切ったことを云ってたな。やっぱりきつい人だった」

「成仏したらそう云うさ」

地蔵がはじめて明るい顔をして笑った。

 

『田紳有楽』における仏教にたいする価値観の記述で特筆するべきは、弥勒菩薩妙見菩薩、そして骨董どもを囲んでの闌の宴となる間近の、丹波焼きと柿の蔕ーーいずれも骨董品ーーによる次の科白だ。

 

「やい丹波、てめえは今朝の新聞を見なかったか。ここにはこれこの通り、今日から五十億年の後には太陽がどんどん膨れあがって地球も月もなかへくるめこまれたうえに、百五十億年の後には一切合財宇宙の彼方のプラックホールと云う暗黒の洞穴に吸いこまれて消え失せてしまうと記してあるぞ。してみれば、誰がこしらえたかわからぬお経に迷って悪業を重ねた末に、たとえてめえ一人が五十六億年生きのびようと、弥勒様の説法はおろか、とうの昔に身体は熔ろけている道理だ。さすればてめえの所業は空の空。これ、日頃の高慢はどうした。返事をしねえか」

「なにを猪ロ才な。たかが紙切れ一枚にふりまわされて見苦しい」

 と丹波はやっと呟いたが縁の震えはとまらず、私も虚をつかれて妙見の顔色をうかがうばかりである。

 

ここでは末法の世に降り衆生を救済する約束を授けられた弥勒菩薩を前に、その来るべき運命が訪れるより以前に宇宙の崩壊が予測されるという、今日の科学的言説によって仏教教理がシニカルに否定される。その熾烈な皮肉は著者の仏教への理解や関心の高さを窺わせよう。そして、この場面は小説全体を俯瞰して考察してみた時、骨董品を手中に実験していた弥勒の超越的な立場が崩壊する瞬間にほかならなず、その意味で作品転換をなす重要な箇所だといえる。

 

藤枝静男が『古本説話集』あるいは『信貴山縁起』を読んでいたか、読んでいたとして援用したか。それは憶測の域を出るものではなく結論を述べることはできない。だが、少なくとも我々は説話の荒唐無稽さに驚くだろう。鉢は飛び、校倉の戸を開け、畦倉を乗せて飛翔する。他方で藤枝静男の痛烈なアイロニーのなかに、学術とは異なった次元でのみ可能な仏教への理解というものをーーシニカルな態度によって仏教の琴線にふれてしまっているという事例をーー認めることができる。

 

信仰の契機 ーー説話文学にみえる発心 弐

近年、龍樹の著作群の見直しが量られている。大智度論』『十二門論』など、龍樹が書いたとされる著作の数は少なくない。しかしながら、最新の研究では龍樹の新作は『中論』のみという学説が支持を集めており、さまざまな本やシンポジウムで紹介されているーー無論、批判もあるーー。

 

以前、発心を主題とした観音信仰譚を紹介した。  今回も発心をめぐる説話を一つとりあげるのだが、その主人公がほかならぬ龍樹である。

 

龍樹は釈尊の多様な教義のなかでも特に縁起の教えを尊び、また空の思想を体系化した思想家として知られる。今日高等学校で扱われる程度の歴史の教科書を開くと、「大乗仏教の大成者」というようなかたちで紹介もされる。この書かれ方には違和を感じざるを得ないが、仏教思想史上極めて天才的な人物であったという評価を窺わせる。  

 

ここに取り上げる説話「龍樹菩薩先生以隠䒾笠犯后妃事」は、『法苑珠林』『今昔物語』等にみえる物語である。

龍樹が俗人であった頃、悪友とともに女性たちを強姦し、つぎつぎに子をなさせたという逸話は有名で、芥川が自作小説に用いたことでも知られている。

説話によると、龍樹は悪友二人とともに「隠れ䒾の薬(透明薬)」を作り出し、王宮へと忍び込んだという。そして「もろもろの后犯す」。后たちが御門に相談すると「時に御門、賢くおはしける御門にて、この者(物)は、形を隠してある薬を作りてある者(物)ども也。すべきやうは、灰をひまなく宮のうちに撒きてん」。宮中の者どもがあちこちに灰を撒き散らしたため、歩行したところに足跡がのこるようになり、二人の悪者は居場所がばれて斬り殺される。龍樹はというと、后の服の裾のそばに身を隠していたため、難を逃れたのである。宮中の者たちは忍び人が二人であったと思い込み捜索を止める。隙を見て龍樹は抜け出し、出家したという。物語は「されば、もとは俗にてぞ」で締め括られる。    

 

上記の物語は仏典や説話集によって内容に若干の異同がある。だが、上に引いた作品の真面目は、やはり最後の一文「されば、もとは俗にてぞ(つまり、〔龍樹菩薩は〕元々は俗人だったのだ)」にあると思う。  

訳註をほどこした高橋貢によると、『今昔物語』の類話では「外法は益なし」と知り出家したと書かれているらしい。この点を考慮すれば、俗人の発心、そして俗人でも聖人になることが可能であるという薦めの積極的な肯定が主題化されているものと読める。しかも話のモデルがかの龍樹であるという点が味噌であろう。    

 

とはいえ、龍樹の発心の契機の所在がどこにあるかといえば、説話は理由を語っていない。つまり、友人が死んだことが動機となったのか。あるいは、快楽の無意味さを感じたことが動機となったのか。この点がいまいち判然としない。  鳩摩羅什訳と伝えられる『龍樹菩薩伝』(No. 2047)では、「是時始悟欲爲苦本衆禍之根」(T2047_.50.0184b21〜T2047_.50.0184b22)とあり、欲望が無益であり苦の根源であることの気づきが出家の動機であったと述べられている。

 

世俗時代の龍樹の物語は、思うに、世俗の人々にとって出家や哲人への親近感を感じるような説話であったことだろう。また、高橋貢も指摘するように、色欲が大いに関与する点に説話らしさを大いに感じることができる。

 

ちなみに東京大学は『龍樹菩薩伝』を「高校生にも読めるように」、という意図で翻訳している。当然ながら、今回確認した伝説も登場する。

 

https://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT2018/JT2047.pdf 

https://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT2018/JT2047.pdf

 

 

 

信仰の契機 ーー説話文学にみえる発心 壱

パスカルは『パンセ』において信仰は訪れるものであると語っている。信じているかのように振る舞い続けるーー典礼を続けるーーうちに、信仰はむこうからやってくるのだという。

仏典で語られる発心の契機は様ざまだが、もうすこし俗っぽいもの、たとえば説話文学など読んでいると、結構おもしろい物語に出会すものだ。

 

ここ数日のあいだ石川県内をうろうろしているのだが、道中、時間のある時には高橋貢が訳註をほどこした『古本説話集』を読んでいた。

原文・口語訳・註の3点が用意された説話集のアンソロジーで、『宇治拾遺物語』『今昔物語』といった耳に馴染みのある説話集所収の話のほか、『打聞集』『三国伝記』など、古典に親しみがない自分にとっては初見の説話集に依拠した話なども紹介されていて、なかなか楽しいし参考になる。

 

全体を通読して気づかれる第一の特徴は、観音信仰譚の多さである。かつて筆者は熊野で行われていた儀礼や修行を調べる必要があったために、『日本霊異記』と『本朝法華験記』を集中的に読んだことがあった。これらだけでも観音経信仰や観音菩薩信仰浸透の絶大さが窺えて尻込みしてしまったものだが、今回、前掲書『古本説話集』を読んで図らずもあらためて慄いてしまった。ちなみに、『新国訳大蔵経』「十一面神呪心経」の解題において(三崎良周だったか林慶仁だったか失念した)、観音経の影響力を仏教史上最たる例のひとつにあたるとしていた。

 

このことから、観音信仰譚だけを目的にして何かを書こうとするのは厖大極まりないので、ここでは発心に関する例を引いてみたい。参照するのは、「信濃国筑摩湯観音為人令沐給事」。『宇治拾遺物語』『今昔物語』等に伝わる小品である。

 

 

www.yatanavi.org

 

話のあらすじはこうである。信濃の筑摩温泉ーー束間温泉ーーの近辺に住むひとが、観音菩薩が「年三十ばかりの」「髭黒きが、綾藺笠きたるが」云々の男の姿をして温泉に訪れるという夢をみた。夢をみたひとは早速人びとにこのことを伝える。人びとは湯を変えたり清掃したりして準備を整える。

そして、未刻にちかい頃にもなって、お告げ通りの容貌の男が現れる。人びとは夢のとおりの有様だといって、この男を拝んだ。

他方で、拝まれた男の方は大層驚いた。そこで、一人の僧侶にどういうわけか訊ね、あらましを聞く。

その結果、男は「わが身は、さは観音にこそありけれ」と知り、「ことは法師になりけん」と思い立つ。そうして身につけていた武具を一切棄て、僧侶になったという。彼は横川にのぼり暫くその地に住んだのち、土佐国へと赴いた。

 

面白いのは、自分は観音だったのか、と男が思い剃髪する点である。彼はその可能性を前に否定か肯定かという二者択一を計ることなく、発心して出家する道を選択する。

無論、彼の発心は観音に導かれたものとみるのが筋であろう。そもそも霊夢を最初の登場人物に与えたのは観音菩薩であろうはずだから。

だが、ここで注意したいのは、その夢の内容は夢を見たひとによって人びとへと伝えられ、また、結局出家する男に夢の内容を伝えたのも村の人びとだったという点だ。換言すれば、男の出家の契機は拝む人びとの行為(礼拝と説明)に依拠している。

整理すると、観音のお告げが最初にあり、それを見た人が温泉近辺に住む人びとに事のあらすじを説明する。のちに男が現れ、男に全てが伝えられて男は横川の僧侶となった、というわけである。

この手の込んだ筋書を文学的に評価することもできようが、しかし、すべてが観音の意図のもとであったと読むなら、この得難い縁起は観音の功徳を讃える言説として読むべきだろう。すべてが仕組まれているのだ。夢も伝言も男の来訪も彼の出家も。

 

他方で、説話の核心を観音信仰にみるのではなく、如来蔵の示唆、俗人の聖者への転向、という観点に求めることも可能だと思う。この種の物語は説話集に少なくない。改めて書き留める。

 

 

 

 

 

メモ : 仏教の男性中心主義と陰核 ーー仏典のなかの女性の正覚

 

最近、カトリーヌ・マラブーの『抹消された快楽』の訳書が上梓されたことで、フランス思想研究の界隈がにぎわった。

 

www.h-up.com

 

筆者も刊行記念のオンライン講演会に参加し、マラブー氏本人の講演や本邦の研究者たちによる意見交換会に接した。

 

哲学史上、わけてもデリダのロゴス主義批判以後、陰核 Clitorisはどのように検討されるべきなのか。陰核はかねてより生殖能力がないため、ただ快楽を消費するためだけの存在としてしばしば蔑視されてきた。しかし、陰核とその快楽を否定する言論は男性優位的な価値観の上に成立しているのではないか。

 

しばしば今日のフェミニズムや仏教学でも話題にされる、女性の正覚について。

 

古典的な仏教では、女性は仏になることは赦されていない。それは解脱をめぐるヴェーダ以来の思想的特徴で、初期の経典や律典においても保持された伝統であった。

しかし、この教理は大乗経典で訣別される。法華経や薬師経では女性の解脱が積極的に説かれるし、華厳経などでは善財童子に女性が仏法を説示する様子が描かれる。

ただしーー経典によって若干の異同はあるがーー、「男性に転じることによって」女性の正覚が可能となる点については、注意されるべきである。

この議論でたびたび引用される龍女の物語では、女根、つまり陰核の男根への変容というステップが踏まれてから、初めて悟ることが可能になると言われている。この論理をもとにすればーー逆説的だがーー、正覚は男性にしか基本的に許されておらず、男性性は男根によってあらわされる。仏教において男根は男性性の記号なのだ。

この龍女の説は我が国の平安期に後白河の手で編纂された『梁塵秘抄』などにもみえ、その受容は日本の民間信仰内でも早かったかもしれない。

また、薬師経などみると女性の解脱が認められる一方で、仏陀の存在する浄土に女性は存在しないことが語られる。そしてそれは、穢れのない状態であるというかたちで言及されるのだーー『薬師琉璃光七仏本願功徳経』ーー。

 

そういうわけで、カトリーヌ・マラブーの仕事は仏教学とフェミニズムの議論においてもかなり効果的であると目される。それは女性の正覚をめぐる問題というより、仏教のロゴス中心主義的な側面を照らすという意味において。

 

 

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