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すべて真実

信仰の契機 ーー説話文学にみえる発心 壱

パスカルは『パンセ』において信仰は訪れるものであると語っている。信じているかのように振る舞い続けるーー典礼を続けるーーうちに、信仰はむこうからやってくるのだという。

仏典で語られる発心の契機は様ざまだが、もうすこし俗っぽいもの、たとえば説話文学など読んでいると、結構おもしろい物語に出会すものだ。

 

ここ数日のあいだ石川県内をうろうろしているのだが、道中、時間のある時には高橋貢が訳註をほどこした『古本説話集』を読んでいた。

原文・口語訳・註の3点が用意された説話集のアンソロジーで、『宇治拾遺物語』『今昔物語』といった耳に馴染みのある説話集所収の話のほか、『打聞集』『三国伝記』など、古典に親しみがない自分にとっては初見の説話集に依拠した話なども紹介されていて、なかなか楽しいし参考になる。

 

全体を通読して気づかれる第一の特徴は、観音信仰譚の多さである。かつて筆者は熊野で行われていた儀礼や修行を調べる必要があったために、『日本霊異記』と『本朝法華験記』を集中的に読んだことがあった。これらだけでも観音経信仰や観音菩薩信仰浸透の絶大さが窺えて尻込みしてしまったものだが、今回、前掲書『古本説話集』を読んで図らずもあらためて慄いてしまった。ちなみに、『新国訳大蔵経』「十一面神呪心経」の解題において(三崎良周だったか林慶仁だったか失念した)、観音経の影響力を仏教史上最たる例のひとつにあたるとしていた。

 

このことから、観音信仰譚だけを目的にして何かを書こうとするのは厖大極まりないので、ここでは発心に関する例を引いてみたい。参照するのは、「信濃国筑摩湯観音為人令沐給事」。『宇治拾遺物語』『今昔物語』等に伝わる小品である。

 

 

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話のあらすじはこうである。信濃の筑摩温泉ーー束間温泉ーーの近辺に住むひとが、観音菩薩が「年三十ばかりの」「髭黒きが、綾藺笠きたるが」云々の男の姿をして温泉に訪れるという夢をみた。夢をみたひとは早速人びとにこのことを伝える。人びとは湯を変えたり清掃したりして準備を整える。

そして、未刻にちかい頃にもなって、お告げ通りの容貌の男が現れる。人びとは夢のとおりの有様だといって、この男を拝んだ。

他方で、拝まれた男の方は大層驚いた。そこで、一人の僧侶にどういうわけか訊ね、あらましを聞く。

その結果、男は「わが身は、さは観音にこそありけれ」と知り、「ことは法師になりけん」と思い立つ。そうして身につけていた武具を一切棄て、僧侶になったという。彼は横川にのぼり暫くその地に住んだのち、土佐国へと赴いた。

 

面白いのは、自分は観音だったのか、と男が思い剃髪する点である。彼はその可能性を前に否定か肯定かという二者択一を計ることなく、発心して出家する道を選択する。

無論、彼の発心は観音に導かれたものとみるのが筋であろう。そもそも霊夢を最初の登場人物に与えたのは観音菩薩であろうはずだから。

だが、ここで注意したいのは、その夢の内容は夢を見たひとによって人びとへと伝えられ、また、結局出家する男に夢の内容を伝えたのも村の人びとだったという点だ。換言すれば、男の出家の契機は拝む人びとの行為(礼拝と説明)に依拠している。

整理すると、観音のお告げが最初にあり、それを見た人が温泉近辺に住む人びとに事のあらすじを説明する。のちに男が現れ、男に全てが伝えられて男は横川の僧侶となった、というわけである。

この手の込んだ筋書を文学的に評価することもできようが、しかし、すべてが観音の意図のもとであったと読むなら、この得難い縁起は観音の功徳を讃える言説として読むべきだろう。すべてが仕組まれているのだ。夢も伝言も男の来訪も彼の出家も。

 

他方で、説話の核心を観音信仰にみるのではなく、如来蔵の示唆、俗人の聖者への転向、という観点に求めることも可能だと思う。この種の物語は説話集に少なくない。改めて書き留める。