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すべて真実

夜の瞑想としての音楽

 

日毎にとは言わず、折りふしの夜にくだりかかる瞑想的な気分にそくした音楽を、お前は知っているだろうか。 

 

深夜の一人部屋の片隅に立ち尽くす闇を音楽として用意して抱いた経験。それは誰しもあったはずである。わたし自身、思い出すことはできないのだが、きっと赤子の時分、闇の恐ろしさから泣き喚いたことはあったはずで、言うなればそれは、闇を自らの歌=音楽にした経験であり、また、自らが聴き手としてあった経験と言ってもいいだろう。それに比較すれば、現在の自分の夜の音楽とは、なんとまあマンネリズムに満ちていて、不細工なのだろうか。

 

わたしは夜の闇のなかから確かに音楽を聴くことはできるが、それは常に表象のようなかたちでしか体験できない。「夜のような」「夜の闇のような」「そのなかにあるような、その傍らにあるときのような」。そういった、肉感に満ちた過去の擬体験を味わわせる音楽を聴くことでしか、夜闇の音楽を体験することができないのである。

 

わたしは夜に交響曲を聴くことができない。室内楽曲でさえ大抵のところ聴くことができない。演奏に際するメディウムの数はせいぜい4つが限度で、好ましいのは1つか2つ、前者は声で後者は弦楽器、その例外は聴くことができない。語が意味を想起させる「言葉」として接近しすぎるものは聴くことができない。したがって、現代日本語の歌の多くを聴くことができない。もっとも、同時代の外国語の音楽も聴くことはできない。

 

わたしが日毎夜の瞑想的な音楽として聴くのは往々にして声楽曲である。古いラテン語ギリシア語の曲が多く、詩篇や忘れ去られた讃美句にもとづいた作品が多い。永遠の時間を感じさせるような低声、蔦を思わせるようになめらかに運動する高音。声の無限の広がり。

 

また、わたしは日頃より民謡を好むのだが、夜は北欧の民謡とか、それを素材にした合唱曲を好む。北欧の民謡は『カレワラ』に依拠した物語とか、なかなか神話的な民話をあつかったものが少なくない。日本での認知度も決して低くはないものの、つい数年前に亡くなった老作曲家の作品が好ましい。

 

夜に聴くべき日本民謡なら子守唄がよろしい。なかでも、東北地方の子守唄がとりわけよい。柳宗悦がいうように、関西が動的な地域であるのに対し、冬の厳しい東北は籠る地域である。夜の音楽に相応しいものは東北に多い。また、わたしは常に経机に武田忠一郎の民謡集を置いているので、気になったものは自分で歌う。もはや廃滅した歌も多く、そんなことに想いを寄せながら歌ったりする。伴奏がない曲だから、独りぎりの声でも完成する。

 

ピアノの小品なら20世紀の曲がよい。茸の作曲家。鳥の作曲家。特にこの2人の音楽を好む。20世紀の音楽なら他にもよく聴くものがあるのだけれど、茸の音楽家の小作品はよく選ぶ。陰影に富んだ優しい作品。

 

人の話し声を聴くのも好きである。わたしのiTunesには(自作の)文化人たちの声の録音がある。商業用に発売されたものから、わたし自身が録音したプライヴェートなものまである。講演、自作朗読、対談、インタビュー、歌。さまざまあるけれど、朗読はなかなかエネルギッシュなものも少なくなくて、瞑想を強度が高く眠りを遠ざけてしまう。聴き手の笑い声だとか、さざ波のようにわきだつ聴衆の気配が偶さか感じとられる講演とインタビューの録音は眠りを誘う。

 

ここまでで問われていないことはなんであろうか。なにもありはしない。そんなものないはずなのだけれど、音楽の効用というものを考えてみるのは無意味だろうかーーこの問いは少なからず自律性を与えるはずだーー。

おそらく、孤独への抵抗力とか、逆に、親和力を夜の瞑想的な音楽はもっていると思う。しかし、それは宗教的であってはならず、芸術的であってもなるまい。瞑想的な音楽の存在は経験的だが、それは端的に、「お前の愛しているものは何か」という問いに連関する。なぜなら、たとえば闇が恐ろしいとしてあらゆるものが信じられないとき(わたしは昨晩に内田百閒に触れたからこういう仮定をたてるのだが)、身を任せられるものは、自分が信頼できるものは自分が愛するものにほかなるまい。それであるなら、夜の瞑想的な音楽に選択される作品とは、そのひと個人が愛する精神を宿した存在であるはずなのだ。孤独を嘲笑したり、夜の寄る辺なさに無頓着であったりする者は、音楽を我が身のうちに保っているだろうか。

 

・・・・最後に「オヤクソク」を引用することを容赦されたい。

 

I    暗闇に幼な児がひとり。恐くても、小声で歌をうたえば安心だ。子供は 歌に導かれて歩き、立ち止まる。道に迷っても、なんとか自分で隠れ家を見つけ、おぼつかない歌をたよりにして、どうにか先に進んでいく。歌と は、いわば静かで安定した中心の前ぶれであり、カオスのただなかに安定 感や静けさをもたらすものだ。......歌はカオスから飛び出してカオスの中に秩序を作りはじめる。

 

II 逆に、今度はわが家にいる。もっとも、あらかじめわが家が存在するわ けではない。わが家を得るには、もろくて不確実な中心を囲んで輪を描き、境界のはっきりした空間を整えなければならないからである。......カオス の諸力ができる限り外部に引きとめられ、内部の空間が、果たすべき務めの、あるいはなすべき事業の胚種となる諸力を保護するにいたる。ここでは選別、排除、抽出の活動がくりひろげられ、それによって大地の内密な 諸力、大地の内部にある諸力が、埋没することなく抵抗し、さらに、成立 した空間のフィルターやふるいでカオスを選別して、カオスから何かを取り入れることもできるようになる。......一人の子供が、学校の宿題をこな すため、力を集中しようとして小声で歌う。......そうすることで自分の仕 事に、カオスに抵抗する力をもたせているのだ。

 

III    さて、今度は輪を半開きにして開放し、誰かを中に入れ、誰かに呼びかける。あるいは、自分が外に出ていき、駆け出す。輪を開く場所は、カオス本来の力が押し寄せてくる側にではなく、輪そのものによって作られた もう一つのの領域にある。......身を投げ出し、あえて即興を試みる。・・・ ささやかな歌に身をまかせて、わが家の外に出てみる。ふだん子供がたどっている筋道をあらわした運動や動作や音響の線に、『放浪の線』が接ぎ 木され、芽をふきはじめ、それまでと違う輪と結び目が、速度と運動が、 動作と音響があらわれる。

 

ドゥルーズガタリ千のプラトー』359-360.