ーーこの共同作業には何か根本的に音楽的な要素、衝動があると思う。ドゥルーズもきみもよく鼻歌をうたう人たちだ。音楽的配分なしには不可能なデュエット、オーケストラとしての共同作業。話を聞いているとふたりの作業が全然リニアに構築されていないことに気づく。作業の進行の仕方、エクリチュールそのものがリゾーム的実践のようだ。
ガタリ そのイメージを展開すると、最初の話に戻るのだが、それぞれにまったく異質な音楽的線分があり、それが交錯したといわなくてはならない。たとえばバルトークをとってみよう。民謡や〈リトルネロ〉が、オーケストラの和声的構築に挿入される。ひとつの新しい音楽が、以前に は考えられなかった異質なメロディ、ハーモニー、対位法、オーケストレーションの出会いから生まれている。
Bartók: Music for Strings, Percussion and Celesta, Sz. 106 - 4. Allegro molto
バルトークを熱心に聴きはじめたのは昨年の冬からだった。精確にいうと「再び聴くようになったのは」、なのだが。
つい一昨日にも一枚買った。ゲオルグ・ショルティとシカゴ響のやつ。わたしはクラヲタでもないし目指しているわけでもないが、これが名盤のうちに入っているのは知っている。
はじめて買った『弦楽器と打楽器とチェレスタのための音楽』はブーレーズ指揮のものだった。これも中学時代。『火の鳥』がカップリングされていた。以降、『中国の不思議な役人』や『弦楽四重奏』など代表的な作品を掠めていくようになるのだが、あるときぱったりと聴かなくなった。思い返してみても、何故だかわからない。不思議ではある。
しかし、また聴き返すようになった契機がなんであるかはわかっているつもりだ。まず、吉増剛造が柴田南雄との対談――『打ち震えていく時間』所収――のなかで『弦楽器と打楽器とチェレスタのための音楽』に触れていたためだろう。もうひとつは、間宮芳生に接近したからだと思う。
簡潔にいえば、自分の敬愛する音楽家と詩人がバルトークに触れていたためである。あるいは、諸氏に自分が接近したからバルトークにも手を伸ばしたと言ってもいい。
柴田南雄と間宮芳生は大学入学後、最初に自分の勉強のなかで取り組んだ課題だし、吉増さんとは個人的なお付き合いが深まった。
ところで『打ち震えていく時間』といえば、このインタビュー内で吉増剛造が柴田南雄に対し、ムラヴィンスキー盤の存在を「教えてあげている」のは印象的だった。あの柴田南雄がこの名盤を知らなかったなんて!!
冒頭に掲げたガタリの上の文章は、たまたまさっき『リトルネロ』を捲っていたなかで見つけたものだ。それだけのことである。
付記
ここまで書いて、自分がバルトークを再び聴くようになったきっかけにジェルジ・リゲティがあったことを思い出した。リゲティは同郷のこの作曲家を愛している。
リゲティについてもいずれ書きたい。