■ph■nisis

すべて真実

疑問3点の訂正

 自分が抱いていた疑問が先生へのご相談でいくつか氷解した。

 くわえて、何点か自分の理解に誤りがあったことを知ったので、記する。

 

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①推理は知覚の延長にあるか。

 → 実際そのようである。推理は前提的に知覚を必要とする。

 

 

②相について

 → わたしは、あらゆる認識対象は知覚の対象――個別相――としての身分も付与されるし、また推理の対象――普遍相――としての身分も付与されうると考えていた。だが、これは誤りだった。なぜなら、たとえば山から煙があがっていたとする。その煙(の色や形)は知覚の対象になりうるが、仮にそこに火があると考えた場合、当然ながらそこには性格上に差異が認められることになるからだ。

 ところで、煙と火はいわゆる<遍充 vyāpti>の関係にあるといえる。それは甲が乙を内含しているような関係を指すもので、その逆はない――乙が甲を含むことはない――。火と煙の関係を例にとれば、煙は火を遍充しているといえる。なぜなら煙は火のある場所にしか起こらないからだ。しかし、火は煙を遍充していない。火は必ずしも煙をたたせないからである。

 遍充はインド論理学の推理や論証を成立させる重大な概念であり、仏教論理学においても、つねにその影響は確認されうる。十分に注意されねばならない概念である。

 

 

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③知覚における独自性は主体の独自性に依存するか否か

 → これも誤りであった。先生にご教示たまわったところ、ジネーンドラブッディが語る「独自に認識されるべき…」とは、自己認識のことを指すらしい。

 したがって、ここでいわれる独自性とは対象の側の独自性であって認識する側の独自性――身体の感官やダルマ――のことではないという。つまり、たんに知覚の対象は個別相――独自であると言われているだけなのだ。

 

 

・・・さて、やはり先生と話題になったのは説一切有部の影響である。日本仏教は――また大正大学は(?)――大乗なだけに、アビダルマの意義を掴み損ねたり、ひょっとしたら「アビダルマなんてみょうちきりん」的な印象を抱いてしまったりするかもしれないのだが、まったくそんなことはない。説一切有部――アビダルマは中観、唯識、論理学…と大乗の基盤的思想に絶大な影響を与えている。もっとも肯定的というよりかは批判的受容というかたちでなのだが、とにかくびっくりする。マジで。

そして意外に経量部や大衆部の影も随所に見えるのもびっくりした。ま、このあたりの諸部についてはいずれ書くとして、今は終い。

「終い」と言ったけど最後にもう一個だけびっくりしたこと。論理学の大家K先生は息子さんの名前を法称(ダルマキールティ)と命名されたらしい。鷲田...。

 

 

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きょうは卒論の提出日だったたお忙しいようだった。もちろんご対応いただいた時間帯は卒論提出期限時間後だったのだけれど、先生には感謝しても仕切れないです。「なかなか悪くない」「論文を楽しく読んでください」という言葉に励まされた。早く先生と同輩や後輩と呑みたいね。